前期にドイツの精神科医で美術史家のハンス・プリンツホルン(1886-1933)の業績を紹介しながら「精神病者の絵画」を蒐集したこと(注6)、統合失調症患者の手がけた建築「二笑亭」を論じた「二笑亭綺譚」(注7)の執筆等、日本における早期の「アール・ブリュット/アウトサイダー・アート」紹介者としての実践に注目し、大内郁、服部正・藤原貞朗らが詳細な検討を行っている(注8)。本稿ではこうした先行研究に多くを学びながら、式場の営みについて考えていきたい。はじめに、先行研究をふまえ式場の彼らの造形物に対する見方、言説にどのような変遷があるのか、著述をリストアップし表に整理した。服部・藤原によると、式場が精神疾患患者の造形物に初めて言及するのが昭和8年(1933)の「精神病者の絵画及筆蹟」である。この時点では式場にとって彼らの作品は「学問的関心と好奇の対象〔表-E〕」でしかなかったが、そこに芸術的価値を認めるのが「二笑亭」〔図1、2〕であるという。両者は「式場にとって《二笑亭》は、『誰も実行できない夢と意欲を、悠々とやりとげた逞しい力』の結果であり、芸術的な『畏怖』と『驚嘆』の対象であった。もし式場の『思想』に転向をみるとすれば、第一の転向はここにある」と指摘。昭和13年(1938)6月の『ホーム・ライフ』の「病的絵画」での統合失調症患者の絵画に対する賞賛〔表-J〕にも触れ、患者の作品を「狂気の症状であり排泄物であって芸術ではない」〔表-C〕と断じた昭和10年(1935)時点とは大違いと述べ、ここに芸術観の転換を見ている(注9)。しかし、こうした見解に立つ限り式場の発言は矛盾している。すなわち、「二笑亭」をもっての「思想の転向」後も、彼らの造形について「患者にとっては一種の排泄作用であって、絵を描くことも小便をすることも大差がない」〔表-I〕、「この症状としての産物と、純粋の芸術的創作とは必しも同じグルンドに立ってはいない」〔表-M〕と述べており、必ずしも「純粋な芸術」ではないと捉えているからである。昭和14年(1939)の『二笑亭綺譚』に収録された「狂人の絵」においてさえも、同様に統合失調症の患者の製作は「一種の排泄作用」と語った後に、「『二笑亭綺譚』の主人公も、この患者であった。あの珍奇な建築は、この病症によって説明される」と述べている〔表-K〕。本文で「その美的効果のねらい方にしても、非凡な才能がひらめいている」等、建築に随所に見出される美しさを詳述する本文の姿勢とは異なっている。式場の彼らの造形物に対する発言の違いは何から引き起こされているのか。それはひとえに式場が医療者としての立場を第一に考え、彼らの造形物について発信していたがゆえと思われる。〔表-A〕や〔表-H〕を見る限り、式場は診断に際する価値の高さを述べており、また、〔表-D〕からは、治療を行ううえで彼らに心を寄せ正確に― 324 ―― 324 ―
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