理解していくための重要な媒体として捉えていることが分かる。患者の造形物についての情報発信は第一に医療者へ啓発することが目的であったのではないか。そのように考えれば先に挙げた〔表-M〕の「症状としての産物」の捉え方の真意が見えてくる。これは「病的絵画断想」で成されたものだが、式場はこの前の部分で、「模倣の病理」について触れ、精神疾患患者が描く作品を模倣しようと、患者と同じ境地に浸ろうとすることは、いつか本物の病者になってしまう可能性もあるとその危険性を述べている〔表-L〕。すなわち、式場が患者の造形物の芸術的価値を積極的に発信するようになった以後も、「排泄物」や「症状の産物」などと表現したのは、芸術家に対し患者らの模倣を戒めるものであろう。強烈な否定的表現は患者の行為を侮辱するものではなく、造形物が表出する機序が異なることを強調し安易な模倣により病者にならないよう警告するためのものであると思われる。〔表-N〕ここでは、式場の精神疾患患者の造形物の紹介活動は彼が医師であることを抜きにしては捉えることができないことを指摘しておきたい。(2)「二笑亭綺譚」の執筆─柳の思想と民藝運動との関係─患者の造形物について診断や治療的価値を第一に重んじる式場であったが、「二笑亭綺譚」執筆前も彼らの造形物に対して、前衛芸術に及ばぬものがあると驚異の念を抱いていた。〔表-B〕しかし、おそらく安易な模倣を防ぐためその価値を世間に詳らかに発信することは行っておらず、如何に「二笑亭綺譚」の執筆が特別な営為であったことがうかがえる。式場はなぜ本書を発表したのだろうか。着目したいのが、前年昭和11年(1936)の民藝運動の本拠地・日本民藝館開館という画期的出来事である。式場は「柳さんと民藝館」(注10)において、民藝館の展示が如何に想像や創造に大きく寄与するか、「心の糧」としての民藝の体得に繋がったことに一番感謝する、と述べている。式場はこの後、自邸の設計・建築を濱田庄司、柳、河井寬次郎ら民藝運動の中心メンバーに委ね(昭和14年(1939)完成)、先述したように同年から運動に本格参入する。柳さんは美を発見する天才だ。(中略)民藝館はこの天才が生んだ稀有の芸術品だと思う。(中略)吾々はあれをみて、美しいものを発見し、それを生かす道が無限にあることを教わる。民藝館は生きている。器物も建物も呼吸している(注10)。― 325 ―― 325 ―
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