鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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式場に転機をもたらしたと推察される民藝館の開館から一年後の「二笑亭綺譚」の執筆は、誰も顧みなかった日常の生活道具の美に光を当て、民藝館という場で「生命」を吹き込み観る者を魅了した柳の営為に触発された出来事と考えても不自然ではない。世間が「化物屋敷」、「牢屋」と忌避していた建築に潜む美から受けた純粋な感動を共有したいと力強く発信する姿は柳を彷彿とさせる。このように報告者が考えるのは式場が「二笑亭綺譚」において、芸術的・学問的意義を発信するのみならず、以下のような問題提起をも行っているからである。本書の最後に設けられた「生活の反省」の一節を見てみよう。狂人の心理を常人と全く違った、天国か地獄に属する珍奇なものだとする考え方もある。しかし、誰の心にも存する傾向の強化であり、常人の心に潜む意欲の勇敢な発現に過ぎない、という見方も成立つのである。いや後者のような解釈が、合理性が多いとみられる。二笑亭を分析し、診断する時に、これを病者の異常作品と結論するのはよい。だがその中には、われらの生活や思想に反省を促すものの多いことも忘れてはならない。二笑亭は、個人のものである。赤木城吉[建築主・渡辺金蔵の仮名]は彼自身のためにのみ、あの家を建てた。しかし、あの家には人間生活を反省させる鏡が沢山ある(注11)。ここには、精神病者の心理は誰にでも通じるものであり、二笑亭から学びを得ることが大切という視点が提示されている。式場は大正15年(1926)に記した「精神病者の問題」のなかで「世間一般の人々は殆んど精神病についての智識を持っていません。そのために精神病者は実に不当の取扱を受けているのです。(中略)精神病者の救済保護は目下の急務」(注12)と述べている。式場は彼らの境遇を改善する必要性を痛感しており、「二笑亭綺譚」は美への感動を通じて他者理解を図る柳の手法を敷衍してそれを実現化する意図が大きかったのではないか。ここで重要なのは、式場が求めている二笑亭との関わり方である。注⑿の文献で式場が述べたように「救済保護」すべき対象として二笑亭の建築主を下位に置いた形で理解せよというのではなく、我々に反省を促すものがたくさんあると、対等な関係性の構築を求めている点でこれも柳と同様である。本文においても建築に具現化された「複雑な人間の心理」に目を向けよ〔表-F〕、グロテスクや出鱈目といった要素を取りのぞいたあとの作者の根深い意想に触れよ〔表-G〕、という対等な姿勢での理解を呼びかけている。そして、昭和14年(1939)に単行本化された本作に掲載された柳の跋文も、二笑亭― 326 ―― 326 ―

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