鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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と民藝との強い連関を示している。以下に該当部分を引用する。街頭の写真を見よう。中央のそれは左右の民衆に対し圧倒的な力ではないか。病的といえばそれ迄だが、何か作者は健康な本能の力を活かしているようにさえ見える。力を失った近代都市の習俗的な民屋に対して、比較にならぬ程確実ではないか。(中略)何れが病的な軟弱さを有つか、答えを迫るものがあるではないか(注13)。柳は病的なのは周囲の家のほうで、二笑亭の方がむしろ「健康」と述べる。柳にとって「健康」という性質は、民藝の領域に豊かに現れる美を形容する言葉であり、「単に肉体的な頑丈さというような意味」ではなく、「まだゆがめられないありのままの様」、「自由な無碍な状態」、「本然なるものの姿」(注14)という意であった。そして、柳は「吾々をもっと健康にするための幾多の示唆」を受けることが「不幸な人々への吾々の務め」であると締めくくる。大沢啓徳は、柳の「健康」概念について、身体的な障害等は問題ではなく「精神における本来的な正しさ」を表すと述べている(注15)が、まさにここでは障害のことは度外視し、何ものにも束縛されない自由な境地で建築を行う二笑亭の作者から病的な状態に陥っている「吾々」が学ぶことで健康になろうという主張が展開されていることがうかがえる。柳は、前半部で、「狂者の創作は其の根底において変態的なものであるのはいうを俟たない。其の意味で吾々の模範とすべきものでもなく、又それによって幸福が約束されるものでもない」と言っており、全面的に肯定しているわけではない。柳の見解は、造形物が表出する機序の違いを無視し、彼らの作品を安易に模倣することを戒める式場の見解と軌を一にしたものといえる。柳が学ぶべきと言っているのは、意匠ではなく自由な境地である。(3)『宿命の芸術』─「病的」が覆い隠すものへの着目─ところで柳は昭和7年(1932)に、式場の精神病理学的研究書『ファン・ホッホの生涯と精神病』上巻の序文(注16)で、世間がゴッホを「病的な画家」と見做すことに不満をもらしている。その上で「彼が病的であったのではなく、彼の誠実を受け容れる事の出来ない彼の四圍に病的な所があったという方が正しい」と述べる。「純粋に宗教的であり道徳的」であり、「哀れな者貧しい者へは涙もろく、正しきことへは勇敢」であったゴッホには「病的」という表現はふさわしくない、周囲が病的と「二― 327 ―― 327 ―

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