鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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笑亭」に対する感慨と同じである。言うまでもないが、柳の「病的」否定は、式場が示す「ゴッホの疾患は間欠性であり、作品は発作のない時に制作された『健康』なもの」という見地(注17)からのものではない。最早、柳にとっては疾患の有無は問題ではなく、人間性に目を向けよとの問題提起がここでは行われている。このような柳と同様の主張は、式場が精神疾患を有していたゴッホやロートレックら芸術家の精神病理学研究をまとめた『宿命の芸術』(昭和18年(1943))序文(注18)にも見受けられる。以下にその一部を引用する。偉大な芸術活動から、病的という言葉を抹殺するために、私はこの本をまとめた。この本に登場する芸術家達は、その不幸な生涯によって、芸術活動の分野の中でも病的な作家と言われ、人々は彼等の作品の中から、つとめて異常なものを見つけだして、その芸術の特質だと考えて来た。私はここで、それとは全く反対に、芸術病理学の立場から、異常な性格にさいなまれながら生涯を戦った作家達の人と作品を検討して、本当の美の顕現というものが、あくまでも健康なものであることを強調したいのである。冒頭の「病的という言葉」を抹殺するという意図は、柳と同様の考えに基づくもので、世間が「病的」というレッテルを貼って見ようとしないものに目を向けよとの主張ではないか。『宿命の芸術』序文の後半部における「私は宿命的な天才と称ばれて来た人達の芸術と生涯を検討してみて、真に偉大な芸術が健全な人生に対する憧れと、誠実な自己省察によって生れることを知った」という記述と本文に収められた論考から、式場が苦悩を抱えつつ真摯に生命を全うする芸術家の人生全体に着目するよう促していることは明らかである。そして上記の「本当の美の顕現というものが、あくまでも健康なものである~」という一節も作品が疾患の影響のない状態において生み出されたものという点のみを強調したのではなく、彼らの作品に宿る美しさは柳の言う「健康」な境地から生まれたものという意味を含み、人間性や人生全体に着目することを示唆したものと考えられないだろうか(注19)。大内郁は、この『宿命の芸術』序文と式場が昭和14年(1939)に「精神病者の絵画」の紹介を終息させたことを根拠に、「戦時下の思想弾圧とその時期における一般社会に浸透した『前衛性』や『病的』なものへの排除・否定の高まりの中で」、「病的」、「アブノーマル」なものの否定と「健康」なものの肯定へと式場の思想が転換したと述べている(注20)。しかしここでの式場の真意は、「病的」、「アブノーマル」な― 328 ―― 328 ―

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