鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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する。また、国外の美術収集家が展示作品を大量に買い求めたために売却総額は4,600ポンドにのぼり、財政面でも大きな成功をおさめた(注5)。この成果を受けて、1912年10月から年末にかけては「第二回ポスト印象主義の画家展(■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■)」を開催している。1-2.全体像を曖昧にする二つの要因ポスト印象主義展の反響の大きさについて、後年ケネス・クラークは、「趣味(taste)が一人の人間によって変えられるとすれば、それはロジャー・フライによって変えられた」(注6)と語った。この意識の根本的な変革を、ヴァージニア・ウルフは「1910年12月もしくはその前後に人間の性格が変わった」(注7)と形容している。同展の意義に関しては、2010年に『バーリントン・マガジン』で開催100周年の記念特集が組まれ、2021年にはコートールド美術研究所でシンポジウムが催されるなど、近年も検討がつづく(注8)。しかし、展覧会の全容が明らかにされたとは言いがたい。1951年のベネディクト・ニコルソンによる論考を皮切りに、1997年にアナ・グリュッツナー・ロビンスが85点の同定調査の途中経過を一覧にして示し、2010年にはその後の成果と修正案を発表した(注9)。これにもかかわらず、展示に関する情報は断片的であり、紹介される作品の画像も依然として一部にとどまる。この捉えがたさの要因として、第一に、企画の経緯がある。同展の幹事役を引き受けたデズモンド・マッカーシーによれば、1910年の秋口に、翌年にかけてグラフトン・ギャラリーの予定が空いたことを知ったフライが、急遽、同ギャラリーの経営陣にフランス近代美術展の企画を提案し、開催の了承を得たのだという(注10)。フライらは10月上旬から欧州の各都市に足を運び、英国社交界の人脈を駆使して美術収集家や芸術家をあたったが、開幕まで1カ月弱という時間的制約のなかで借用交渉の主な相手となったのは、アンブロワーズ・ヴォラールやドリュエ画廊、ダニエル=ヘンリー・カーンワイラーといった画商であった。各国の名だたる画商の協力が得られた理由は、美術批評家としてのフライへの評価のみならず、ロンドンで大規模な前衛美術展が初めて開催されることへの期待が大きかったためと考えられる。つまり、「マネとポスト印象主義の画家」展は、作品の売買を前提とした商業的な展覧会でもあった。それゆえに、会期中に売却された作品については、閉幕後の行方を追うことが容易ではない。この商業的な側面が、出品作品の追跡を妨げてきたといえる。第二の要因として、出品目録の不備が挙げられる。ポスト印象主義展の出品目録は第三版まであり、とりわけ初版には誤植が多く、版を重ねるごとに修正が施された。― 25 ―― 25 ―

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