鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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の有無のみによるものなのであろうか。2.髙島屋の染織品それでは、髙島屋が百幅画会開催の主眼とした「染織物製作」とはいかなるものかをみていこう。髙島屋の歴史は、天保2年(1831)正月、初代飯田新七(1803~1874)が京都烏丸松原に古着木綿を商う店舗を構えたことに始まる。京都では新興の呉服店であった髙島屋が、明治期に大きく成長を遂げ得たのは、染織品の海外輸出を盛んに行ったことによる(注7)。その発端は、明治7、8年(1875)の頃、京都見物の外国人が髙島屋に立ち寄った際には、友禅帛紗の類を必ず購入して帰ったことから、「これからは外国人との取引を盛んにせねばならぬ」と当主らが決意したことにあるという(注8)。元来、「製造の伴はぬ商売は根拠が甚だ薄弱である」との信念があった髙島屋では、京都の画工が描いた下絵をもとに、職人が友禅、刺繍、綴織などの技を駆使して額絵、壁掛、衝立、屏風を次々に製作した。それらは、海外の邸宅を飾る室内装飾品として盛んに輸出されることになったのである(注9)。同18年(1885)には画室を開設した。画室では、洋画の写真図版を参考に染織品の下絵・意匠の改良、考案を行うため、20代の竹内栖鳳や都路華香、上田萬秋ら京都画壇の若い勢力を集め、常勤画工として輸出用染織品の下絵制作に当たらせた。この頃、髙島屋の染織品下絵を手がけた多くの画工たちは、のちに百幅画会の出品画家となった。同22年(1889)、当主四代飯田新七(1859~1944)は7カ月に及ぶ欧米視察を決行した。四代新七は欧米との圧倒的国力の差を感じながらも、パリでは「日本のものは大流行なり」と、ジャポニスム(日本趣味)を肌で感じて帰国した(注10)。帰国後の彼は、「国家経済の上から輸出に力を注がねばならぬ」とますます輸出業に注力し、「日本美術工芸の声価を宇内に発揚するはこの時に在り」と各国で開催された万国博覧会に出品、受賞を重ねて販路を拡大していった(注11)。同26年(1893)には、烏丸通を挟んで呉服店の東向かいに「髙島屋飯田新七東店」(貿易店)を開店するに至った。やがて、同店は「京都を訪れる外国人で訪れない者はいない」といわれる店に成長したのである(注12)。その一方、本業であるところの呉服業でも画期的な試みを早くから開始していた。明治24年(1891)、呉服店で初めて帛紗図案の懸賞募集をおこなった。同39年(1906)― 335 ―― 335 ―

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