には、「懸賞ア・ラ・モード」の名で新柄呉服を広く募集し、審査を経て「ア・ラ・モード陳列会」で販売した。「ア・ラ・モード」(à la mode)は文字通り「最新流行品」を自ら創出する仕組みであった。新規意匠・図案の創案、開発は呉服店髙島屋の命題であった。当時、京都本店では、「意匠卓絶、衆に秀でたる特色を発揮すること」「平凡なる意匠は現状維持すら覚束なし、寧ろ退歩を示すものなればなり」と店員を鼓舞していたことが知られる(注13)。明治期の髙島屋は呉服店と貿易店が両立・併存していた店であった。百幅画会の主眼に掲げられた髙島屋の「染織物」とは、呉服染織品であり、輸出用染織品であった(注14)。実際に、百幅画会出品作を製品に応用した例が確認できる。榊原蕉園《花の酔》(出品番号86)は輸出用染織品となり、竹内栖鳳《小心胆大》(出品番号95)は長襦袢の柄に採用された(注15)。3.三都での開催「現代名家百幅画会」は、明治42年(1909)に京都・大阪・東京の髙島屋各店で開催された(注16)。京都では、11月27・28・29日の3日間、東側仮営業所落成記念として開催した(注17)。百幅画会開催を告知した新聞広告には、「来ル廿八日、廿九日 当店内ニ於テ開催仕候間、随意御来観被成下度候」とあり、「追テ東京公設展覧会ニテ名声嘖々タル竹内栖鳳先生」の《アレ夕立に》も共に展覧に供すと追記がある(注18)。「随意御来観」は誰でも無料で見ることができるということであり、第3回文展に栖鳳が出品し話題沸騰の《アレ夕立に》を特別出陳するという集客策が盛り込まれたのであった(注19)。大阪では、同年12月5・6・7日の3日間、心斎橋店での開催であった。大阪の新聞広告でも「御随意御来観」を呼びかけたが、大阪では百幅画会に「華道協会主催生花会」という新しい趣向が追加された(注20)。「生花会」は、華道各派の宗匠が百幅画会出品画に対応した生花や盆石を出陳するという趣向で、百幅画会と共にこれも珍しい生花会として大好評であったという(注21)。東京では、丸の内店を会場に同年12月18・19日の2日間開催した(注22)。東京では事前に開催告知広告を新聞に出すという方法を取らず、前日17日に各紙の記者を招待し記事を書いてもらう方法を取った。これは、当時の髙島屋の東京での知名度が関係しているのであろう。記事にも「京都の呉服店髙島屋」と紹介された(注23)。百幅画会は「当代各派の棟梁を網羅し普通の展覧会では見ることができない顔揃い」で― 336 ―― 336 ―
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