いう点では、髙島屋は先行した三越の半切画会の影響を多分に受けているとみられる。そもそも、三越が「半切画」(約120×30cm)サイズを選択したことについては、神野由紀が都市に住む中間層の、一般的な住宅の床の間に飾られることが想定された「住まいの装飾品としての美術品」販売を目論んだことによると指摘している(注34)。三越の大阪支店では、明治42年(1909)3月に第2回半切画会が開催されており、髙島屋でもその盛況ぶりは充分意識していたと考えられる(注35)。けれども、髙島屋は周到に三越の展覧会との差別化をはかった。まず100幅という数で圧倒した。そして三越では、画に合わせた表具が施された作品を購入できることが顧客の「便宜」と強調されたが、表具は仕立て直すことができるという特性を逆手に取り、髙島屋は敢えて100幅を同じ表装で揃えて世間の注目を集めた。さらに、三越が「紙本半切」(幅約30cm)ならば、髙島屋は「絹本尺五」(幅約45cm)と、より高価にわずかに大きなサイズを選択したのであった。衆目を集めた展観手法は、髙島屋が早くから海外博覧会への参加経験を持っていたことが大いに活かされた。ところで、売る目的ではなく「純然たる展覧会」として開催された百幅画会であったはずだが、開催翌年の1月21日・22日の髙島屋同族会議事録には100幅の「売却」についての記述がみられる(注36)。百幅会画幅及夕立画幅ノ件右画幅代ハ一時同族会ノ資金ヨリ支出シ、百幅ヲ相当代価ニ売却シタル上、戻入ルヽコトヽス実は先に述べた百幅画会の実施を決議した明治42年7月の会議決議録には、「同会(百幅画会)後、大坂(ママ)呉服店ニテ画幅及類似品販売ヲ開始スルコト」とあり、美術部創設の計画は百幅画会の実施を決議した当初から予定されていたことが知られる(注37)。したがって、出品画もいずれ「売却」することは想定済みであったと考えられる。百幅画会の三都巡回後に画集『百名家画譜』を出版した事実は、出品画の販売を見据えたためであったことが明らかである。この計画を表面に出すことなく、あくまでも「純然たる展覧会」としての開催で通したのは、当時の髙島屋首脳陣の戦略だったのであろう。さらにいえば、髙島屋飯田合名会社設立後の「第1回営業報告書」には、「百幅及夕立画幅調製実費」として3,951円1銭という金額が計上されていて、百幅画会開催には莫大な経費がかかったことが知られる(注38)。出品画の売却は想定されて然る― 340 ―― 340 ―
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