⑻ 「美術工芸家 飯田新七」黒田譲『名家歴訪録 上編』黒田譲発行、1899年。⑼ 調査No.777「晋翁雑記」髙島屋史料館蔵。晋翁は四代飯田新七の号。なお、調査No.837「履⒅ 「現代名家百幅画会」広告『日出新聞』明治42年11月25日。27日は関係者向けの内覧会。⒆ 《アレ夕立に》(髙島屋史料館蔵)は第3回文展(同年10月開催)に出品されるや大評判となり、新聞各紙には作品批評が続々掲載された。竹内栖鳳と髙島屋の関係については、拙稿「画工棲鳳から画家栖鳳へ」『竹内栖鳳 作品と書簡』髙島屋史料館、2014年。⑷ 調査No.1381「元締会議決議録」髙島屋史料館蔵。⑸ 『新衣裳』92号(吉田耕、明治43年〈1910〉1月1日発行)。⑹ 鈴菜生「日本画及水彩画 大阪三越の新設備」『時好』第5巻11号(三越呉服店、明治40年〈1907〉11月発行)。「半切画展覧会」『みつこしタイムス』11月の巻(三越呉服店、明治41年〈1908〉11月発行)。⑺ 明治37年(1904)4月1日調・京都市多額納税者の第1位は髙島屋当主四代飯田新七である。⑽ 調査No.1424「欧州滞在日記」髙島屋史料館蔵。なお、前掲注⑵田中前掲書は、アメリカの百貨店ワナメーカーで開催された展覧会について明らかにしている。四代新七やその後洋行した髙島屋関係者がそうした海外の百貨店における展覧会を見学したという痕跡は未だ確認できていない。⑾ 前掲注⑼調査No.777「晋翁雑記」および調査No.837「履歴書」。⑿ 原文は漢文。内藤湖南「呉竹庵記」1920年8月、髙島屋史料館蔵。⒀ 調査No.1286「集会録事」髙島屋史料館蔵。⒁ 明治期に「美術染織の髙島屋」の名がたかまった。明治45年(1912)5月、京都市の産業功労⒂ 髙島屋輸出製品記録写真集(貿易部アルバム)髙島屋史料館蔵。『婚礼御式服の栞』に「養老縮緬長襦袢小心大胆」図版が掲載されている(髙島屋呉服店、年月日未詳)。こうした事例は今後も見出すことができるであろう。⒃ 従来、髙島屋の社史では京都と大阪での開催と記述されてきたが、当時の新聞記事および調査No.998東京店の「明治四拾弐年下半季決算報告書」などにより、同年12月に東京でも開催されたことは明らかである。⒄ 近代京都の三大事業のひとつである道路拡幅事業により烏丸通が拡張されることになったのを機に、髙島屋は京都本店の新築を計画した。そこで、本店の東側にあった東店(貿易店)を本店落成までの仮店舗として改築し、明治42年(1909)10月5日、「東側仮営業所」として営業を開始した。⒇ 「現代名家百幅画会」広告・『大阪毎日新聞』明治42年12月4日。 「華道協会主催/各流宗匠聨合 生花盆石大会」前掲注⑸『新衣裳』92号。 東京の西紺屋町店は、明治33年(1900)11月に開店した。その5年後、同38年9月に輸入貿易業務などを分離、紐育生命保険株式会社ビル2階(麹町区八重洲町1丁目)に東京丸の内店を開設した。同店は同41年3月、同1番地(三菱地所部前)の2階建ての独立家屋に移転した。 東京での本格的呉服店の開店は大正5年(1916)の南伝馬町店。 「現代名家百幅画会」『東京朝日新聞』明治42年12月17日。 中西嘉助「栖鳳先生あれこれ」(『塔影』第16巻11号、1940年11月)。中西は当時の髙島屋東京『京都経済の百年』京都商工会議所百年史編纂委員会、1985年。歴書」によれば、明治32年度の輸出金額は約「壱百万円の巨額に達するに至れり」とある。者に「織物・刺繍 飯田新七(髙島屋当主)」が挙げられている。― 342 ―― 342 ―
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