鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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㉜ 黒田清輝と象徴主義─サロン・デザンデパンダン(1892)を中心に─研 究 者:久留米市美術館 学芸課長補佐  佐々木 奈美子1.問題提起本研究では、日本洋画の近代化に尽力した黒田清輝(1866-1924)が、彼の留学期間(1884-1893)に、同時代のフランスで起こった「美術における象徴主義」と接点を持っていたかについて検証する。内面的な世界を造形に込める「象徴主義」は、文学に始まり、アルベール・オーリエやフェリクス・フェネオンらによって美術に援用されると、以前から活動していたシャヴァンヌやモローらも包含されて語られることになった。注目したのは、最後の印象派展とジャン・モレアスの「象徴主義宣言」の1886年から、美術商ジークフリート・ビングの「アール・ヌーヴォーの館」(1995年)に至るわずか10年に満たない期間が、まさに黒田清輝のパリ留学期に重なっていることである。本件を考察する際、壁となるのが他ならぬ黒田自身の画風であろう。後に語られるパリ修業期の物語も、保守本流の土台を日本に作る過程で整理・選択され、また、官費留学生として続いた岡田三郎助、和田英作らの過ごしたパリはすでに世紀転換期で、その証言は1890年前後の黒田の見聞からは遠い。以上を踏まえ、今回は2つの方向からアプローチした。まず、黒田清輝が留学中に確実に見た象徴主義的な傾向を持つ作品が、滞欧期から1890年代の黒田自身の絵に影響した痕跡を確認する。次に、美術に限らず同時代の象徴主義運動と接点を持っていた可能性を探る。その際、黒田本人及び同時期にパリにいた久米桂一郎の言葉を優先して考察を進めるよう留意した。2.象徴主義運動の展開と黒田清輝:同時代性の確認前提として、黒田清輝の留学期と象徴主義運動との同時代性を確認する。足かけ10年の留学期間を、便宜上、法律を学ぶために渡仏し絵画転向するまでを1期(1884-1887)、絵画修業期を2期(1887-1890)、成果を世に問う制作・発表期を3期(1890-1893)と三分し、それと対照しながら象徴主義運動の展開を概観する。「デカダン」という一種のレッテルから能動的に「象徴派」が語られるのは、1886年に詩人ジャン・モレアスがフィガロ紙に出した「象徴主義宣言」(注1)からとされる。同年最後の印象派展が行われ、ゴーギャンがブルターニュ地方のポン=タヴァ― 347 ―― 347 ―

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