ンに向かった。[「象徴主義」の誕生=1期]1887年3月には近代演出の嚆矢として演劇史に名を残すアンドレ・アントワーヌの「自由劇場 Théâtre Libre」が創設される。流派にとらわれず「戯曲」を重視し、自然主義演劇の拠点ながら、ここではヴィリエ・ド・リラダンやエミール・ベルジュラなど反自然主義とされる戯曲も上演された。マラルメも、後述するメーテルランクも自由劇場と接点を持っていた(注2)。[自然主義と象徴主義演劇の交差点としての自由劇場=2-3期]ゴーギャンは1888年再びポン=タヴァンに赴き、クロワソニスムを試していたエミール・ベルナールとともに「綜合主義」への道を拓く。旧知のセリュジェという若者がゴーギャンのアドバイスで描いた小さな風景画をパリに持ち帰り「ナビ派」が結成される。ゴーギャンはゴッホに誘われ南仏に赴くも2か月で共同生活は破綻。革命100年の節目となる1889年には万博会場内のカフェ・ヴォルピーニで「印象主義と綜合主義者展」を行った。[ゴーギャンがフランス各地で爪痕を残す=2期]市場の日本美術熱を背景にビングは1888年より『芸術の日本 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■』を刊行し、1890年には美術学校で日本の木版画の展覧会を開催。この年サロンが分裂し、20世紀美術を予告したと言われるモーリス・ドニの「新伝統主義の定義」(注3)が発表された。翌1891年のオーリエ「絵画における象徴主義」(注4)により、新傾向の美術がゴーギャンを主導者に「象徴主義」に結びつけられる。ゴーギャンは同年タヒチに向かい、その不在期間にナビ派が活動を本格化させる。1892年ペラダンの「第一回薔薇十字展」。ビングも日本美術から「新美術」へと目を向け、ナビ派のメンバーとの関係を深めていく。[美術における象徴主義の始まり=3期]1890年に「芸術劇場 Théâtre dʼArt」を旗揚げした詩人ポール・フォールは、「メルキュール・ド・フランス」のメンバーやヴェルレーヌら文学者たち、さらにゴーギャンやナビ派の画家たちと交流し、1891年以降ここが象徴主義演劇の拠点となる(注5)。一方、30部だけ印刷したメーテルリンクの『マレーヌ姫』がマラルメから批評家オクターヴ・ミルボーの手に渡り激賞されるのが1890年。1892年出版の『ペレアスとメリザンド』は、ナビ派の仲立ちで芸術劇場に参加し、後に「制作劇場 Théâtre de lʼŒuvre」を結成するリュニエ=ポーによって、紆余曲折の末1893年5月に上演された。黒田清輝はその年の6月にパリを発つ。[メーテルリンクの登場=3期]― 348 ―― 348 ―
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