鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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3.象徴主義美術と黒田清輝:第8回アンデパンダン展黒田清輝がフランスにいた10年の間には、「共進会」ことフランス芸術家協会のサロンに加え1889年の「モネとロダン」(ジョルジュ=プティ)やカフェ・ヴォルピーニなど注目すべき企画が様々にあり、画学生としては事情の許す限り各所に足を運んだかもしれないが、新しいタイプの美術に関心を向けるには、鑑賞する側の練度と問題意識が必要となる。黒田の場合も「共進会」で認められる以外の道を明瞭に意識したのは、自ら発表を始めた留学後期、特に、前年の入選から一転落選した1892年春の経験は心境の変化を促したものと思われる。そのタイミングで鑑賞した第8回サロン・デザンデパンダン(以後「第8回展」と略)は、黒田に新傾向の美術を意識させた展覧会ではなかったかと考えている。理由を以下の4点にまとめる。⑴  『久米桂一郎日記』には4月8日の「朝十時ヨリ黒、忠ト三人独立派展画会ヲ見ル」(注6)とあることから、「第8回展」を確実に見ていることがわかる。4月5日に「サロン追ツ払ヒノ手紙ヲ受取」った3日後のことである(注7)。⑵  翌1893年の春に、黒田清輝はフランス芸術家協会から国民美術協会のサロンに出品先を変更した。事前に師のコランに相談の上でピュヴィス・ド・シャヴァンヌにも作品を見せたという。絵画に複数のスタイルがあることを認識し、自らの課題として行動している。⑶  1892年9月30日付父親宛手紙で、すでに次回のアンデパンダン展に出品したいという意思を伝えている(注8)。「第8回展」を実見し、参加することに意義を感じたからこその判断であろうし、実際に「第9回展」に6点の作品を出品した。⑷  1892年の写生帖にある画稿や、帰国後まもない時期の作品に「第8回展」の出品作との関連が認められる。本件については、以下に具体例を示す。サロン・デザンデパンダンは1884年にスーラやシニャックを中心に始まった。1892年3月19日から4月27日まで開催された「第8回展」は、前年亡くなったスーラを回顧し《グランド・ジャッド島の日曜の午後》など彼の46点(注9)を含む1200余点が展示され、そこにはゴーギャン周辺の画家たちのほか、黒田と同世代から少し若い画家たちも参加していた。1890年頃より活動を始めていた「ナビ派」の画家たち、ボナール、ドニ、イベル、ランソン、ライセルベルへ、フェルカーデらである。モーリス・ドニの《4月》〔図1〕は、《7月》《9月》《10月》と組になる室内装飾画の一枚で、花を摘む女性たちが蛇行する道に沿って画面右下方向へと連なっている。サン=ジェルマン=アン=レイのテラスから臨むセーヌ川を再現したような広く― 349 ―― 349 ―

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