鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
360/549

と並べると近似した構図となっていることがわかる。それが偶然ではない根拠として、黒田のもと美術学校で学び直した和田英作の卒業制作《渡頭の夕暮》〔図10〕が同構図のヴァリエーションを響かせていることをあげておく。左から右に向かって解放していくクレッシェンドと、手前と奥の空間の二重構造である。ただ、画面左は塞がれず、画題も明瞭で本来の絵画的文脈の内で解決しうるものである。これをボナール《黄昏》と並べても直接の関連は見出せないだろう。間に《大磯鴫立庵》をはさむことで、伝言のようなつながりが浮かび上がる。一つ疑問がある。「第8回展」の目録には260作家、1232点が掲載されている。同世代への関心という点を加味したとしても、多数の中からピンポイントでナビ派の作品に注目するものだろうか。たとえば、3月23日の「薔薇十字展」など彼らの作品を目にする機会はそれ以前にもあっただろうが(注12)、さらに彼らの存在を強く印象づける出会いが他にはなかったか。次章ではその可能性を検討する。4.象徴主義演劇と黒田清輝「今年のお正月には同じ年ぐらいの友達が多くおりなかなか面白いことでございました 三日の日には公使館で夜会がございましてその時には私どもが四五人で芝居の真似をいたしましてなかなか人を笑わせました(中略)今までのお正月よりよっぽど賑やかでした」(注13)。母親宛、1892年1月15日付の手紙である。黒田は前年12月に「小松の宮樣の御肖像を描き申候」(注14)ためグレー村からパリに戻り、年明け1月3日に公使館で仲間たちと芝居をした。まず、この時の芝居が何であったのか。当日の久米桂一郎の日記に「朝顔日記ノ狂言仕度方ニテ大騒ギナリ 十二時ニ芝居ヲ始メル可ナリノ出来」とあり、演じたのは「朝顔日記」であったことが知れる。人形浄瑠璃「生しょう写うつし朝顔話」は初演が天保3年(1832)で、現在でも文楽や歌舞伎で上演される。元の司馬芝叟の長話「蕣あさがお」、それを受けた近松徳叟の歌舞伎脚本は伝わらず、文化8年(1811)に雨香園龍狼が「故芝叟遺話」として表した読本『朝顔日記』が、成立年次が明らかで現存する最古。それに影響された文化11年(1814)初演の狂言「けいせい筑つくしのつまごと紫𤩍𤩍」が人𤩍で、天保3年の浄瑠璃「生写朝顔話」につながった(注15)。黒田たちの芝居は余興の類ではあるが、そもそも誰が発案し、「朝顔日記」の脚本を彼らに提供したのだろうか。久米の日記を見ると、この時期、観劇が彼らの娯楽の一つとして定着していたことがわかる。正月芝居のあった1892年1月だけでも元旦に― 351 ―― 351 ―

元のページ  ../index.html#360

このブックを見る