鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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は黒田と「フェードル及公事人」を、16日には「荒娘退治」という「中々以テ面白」い芝居を、28日にはマチネで「マリヤージュドフィガロ」を見ている。「フィガロ」は愉快を極め「是等ガ仏国狂言ノ粋ト云ハンカ」という感想も記している(注16)。さて、正月芝居の翌月、1892年2月に、パリで『朝顔日記 ■■■■■■■■■■■■■■■』が出版されている(注17)。訳者は吉田義静。帰国をひかえた黒田が第9回アンデパンダン展(1893年)に出品した作品の一枚に讃を書いた人物である(注18)。吉田義静は熊本出身で、上京後は司法省法学校で学んだ。後にパリで黒田の後見となる原敬と同窓で、原が退学処分を受けた「賄まかない征伐」の時にともに上層部への交渉にあたった一人である。1887年に山梨県尋常師範学校長を辞め、渡欧。1891年10月に林忠正がエドモン・ド・ゴンクールに宛てた手紙で「吉田」という日本人を紹介している(注19)。書中でその人物像を「日本皇子の御付」で最近「劇作関係の書物を翻訳し」、古い日本のことをよく知っている学のある人物としている。久米桂一郎は日記で何度も吉田義静について触れ、特に1892年1月から7月までの半年は頻繁である。1月10日夕方には「吉田氏に赴く‥後復習十一時迄謡フ」、1月24日「吉田ノ処ニ行ク‥夜少シ謡フ」、1月31日「夜ハ文殊町吉田院ニ飯ヲ食ヒニ行キ後謡フ」、2月14日「吉田ノ処ニハセ附ケ牛鍋ヲコシラヘ‥後少シウナル」など、会って食事や会話をするだけではなく、吉田に謡を習うか、あるいは、ともに稽古をしていたことがうかがえる(注20)。久米の日記は1890、91年が確認できず交友の始まりを追えずにいるが、久米は林忠正のもとで仕事をしていたため、遅くとも林がゴンクールに手紙を出した1891年10月には知り合っていたと推測される。一方、黒田は1891年12月25日付で父親宛に、件の正月芝居の件を書き送っている。「來年の三日ニハ宮樣御始メ今度歸朝可相成候人三四人へ當地の日本人會より御餞別致す事と相成候 其時ニハ何ニかめづらしき事をして見んと友人(若き連四人計)相談の上いよいよ芝居のまねをやらんと云事ニ相成候 黒田が芝居をやつたと爲てハ古今未曾有ナラント皆々大笑ヒ致す事ニ御座候」(注21)。「古今未曾有」の事態としても、「いよいよ」というからには仲間内では以前から話には出ていたのだろう。ここで、黒田が1891年12月の何日にパリに戻ったのかに注目したい。11月27日付母宛には「来月の十日ごろにはぱりすにでかけまして」(注22)と書き、12月17日付父宛に「私事丁度今日より一週間程前田舍より當府へ歸り」(注23)とあることから、12月10日にパリ入りする予定を事前にたてていたことがわかる。パリとグレーは日帰りできる距離で、実際、黒田も久米も思い立ったように行き来― 352 ―― 352 ―

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