をしている。いくら肖像の仕事があるとはいえ、「来月の十日ごろ」と日を特定していることが気になる。上の17日(木曜)付の手紙の続きには、「此の週の月曜日より」朝は学校で勉強し、昼から肖像の仕事をするとあることから、14日が初日のはずである。あえて「十日」までにパリに戻る用件が何かあったのだろうか。1891年12月11日、ポール・フォールの芸術劇場がこのシーズンの初日を迎え、メーテルリンクやジュール・ラフォルグ、レミ・ド・グールモンなどからなる象徴主義プログラムが上演された。1891-1892シーズンの初演プログラム〔図11、12〕により、開催日時は12月11日の8時半からと確認できる。黒田たち「若き連」は、芝居に詳しい友人に連れられてこの公演に行ったのではないか。吉田義静『朝顔』の出版は1892年2月だが、序文の日付は1891年11月で、12月に注目のプログラムを観劇する流れは平仄が合う。吉田が誰かを誘うとすれば、年明けに「朝顔日記」の芝居をすることになる仲間たちであったことは十分に考えられる。1890年に注目されたメーテルリンクの戯曲は、翌1891年、パリで2度上演された。5月の「闖入者 LʼIntruse」と、この12月の「群盲 Les Aveugles」である(注24)。蛇足ながら「朝顔日記」は主人公の女性が途中で失明する筋立てであることを付け加えておく。この時の芸術劇場の公演では、ナビ派をはじめとする新傾向の美術家たちが全面的に協力をしていた〔図14〕。プログラムの演目のページを見ると、たとえば、カミーユ・モークレールが翻案したトロバドールではセリュジェが衣装を、ボナールとイベルが舞台装飾を担当したことが記載されている(注25)。レミ・ド・グールモンのThéodatではドニが両方を引き受けている。プログラムの挿絵も彼らが描いたものであった〔図13、15、16〕。5.結語と展望以上、「象徴主義」が展開した時期にパリ及び近郊にいた黒田清輝が、1890年代初頭の「美術における象徴主義」と、おそらくは象徴主義演劇にも接していた可能性を辿った。目に見えない世界への関心を、暗示や隠喩を用いて、あるいは、音楽のように表現しようとする象徴主義運動の最盛期に若き黒田が居合わせ、感応したことが、自身の「構想画」への取り組みのきっかけとなったというにとどまらず、装飾的思考を含む多様なスタイルを受容するスタンスを日本洋画の近代化の芯にもたらしたのではないだろうか。改めて黒田清輝の功績の大きさを思う。欧州前衛と日本洋画の「時代の共有」は常に一瞬の交錯で、捉えどころが難しい。― 353 ―― 353 ―
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