注⑴ Jean Moréas,《Le symbolism》, ■■■■■■■■■, 18 septembre 1886.⑵ 象徴主義演劇については主に以下を参照。中筋朋『フランス演劇にみるボディワークの萌芽』世界思想社, 2015年。Frantisek Deak, ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■, The Johns Hopkins Univ. Press, 1993. ⑹ 『久米桂一郎日記』中央公論美術出版, 1990年(以下『久米日記』と略), 118頁。⑺ 3月30日に「今朝親爺曰クサロンハダメナリト」、4月5日に「今朝サロン追ツ払ヒノ手紙ヲ⑽ 『黒田日記(一)』252頁。⑾ ドニの室内装飾画と黒田作品との相似については拙稿「パリの画学生─黒田清輝と小林萬吾の現代美術」(「白馬のゆくえ-小林萬吾と日本洋画の50年」展図録, 香川県立ミュージアム/久留米市美術館/高梁市成羽美術館, 2020年, 133-134頁)で短く触れている。⒃ 『久米日記』102, 104, 106頁。⒄ G. Yoshida, ■■■■■■■■■■■■■■■, Paris:Victor-Havard, 1892.⒅ 「第六花下美人索句(之レハ日本画の出来そこないと云風の画にて[中略]只画のみにてハ面⑶ Maurice Denis,《Définition du néo-traditionnisme》, ■■■■■■■■■■■■■■■, août 1890.⑷ G.-Albert Aurier,《Le symbolism en peinture Paul Gauguin》, ■■■■■■■■■■■■■■■■■, 15 mars 1891.⑸ ʻLe Théâtre dʼArt va devenir absolument symbolist.ʼ, ■■■■■■■■■■■■■, 24 février 1891, dans ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ʼ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■1890-1900, Musée de Pully, 1991, p.41. ⑻ 『黒田清輝日記(一)』中央公論美術出版, 1966年(以下『黒田日記(一)』と略), 281-282頁。⑼ ■■■■■■■■■■■■■■■■8■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■, 19 mars-27 avril, 1892, pp. 66-⑿ 『久米日記』115頁。⒀ 原文「三日」「四五」以外は仮名。『黒田日記(一)』242頁。⒁ 『黒田日記(一)』240頁。⒂ 原典拠は清代戯曲「桃花扇」と考えられている。「朝顔日記」の成立と展開については以下を参照した。内山美樹子他『「朝顔日記」の演劇史的研究─「桃花扇」から「生写朝顔話」までー』「朝顔日記」の会, 2003年。⒆ 1891年10月8、10、20日付。ジョヴァンニ・ペテルノッリ「エドモン・ド・ゴンクール宛の林忠正未刊書簡について」『浮世絵芸術』62号, 1979年, 8-9頁。本件は、荒屋鋪透「ドガと林忠正─交友についての覚書」(「ドガ展」図録, 三重県立美術館, 1988年, 246頁)で言及されている。今回「印象派と象徴派の画家展」(1891年12月に第1回展)も追ったが、黒田が実見したという確信にいたらなかった。今後、さらに具体例が集積していけば、明治期の日本洋画における文献ルート以外の象徴主義受容の様相を紐解く手がかりが増えるだろう。受取リ糞忌々敷ナツテ(以下略)」の記述がある。同上書116-117頁。68.白からず存候ニ付吉田義静と申人ニ頼み詩一首書きそへ貰ヒ候)」 『黒田日記(一)』314頁。― 354 ―― 354 ―
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