『臥游集』の検討は不可欠と言ってよいだろう。果たして史料の翻刻を進めるうち(注7)、これまで知られていなかった事実と、検討課題が新たに見出された。まず注目すべきは、「正倉院宝物」という語が頻出することであろう。天保4年10月18日、正倉院が開封された際に在明は宝物点検に加わっている(注8)。現在宮内庁書陵部では鷹司家旧蔵品の在明筆「正倉院宝物写」を所蔵しており、本作品については注8に挙げた福田道宏氏の論考に詳しい。報告者が注目したのは「三蔵宝物」に由来する文様を提出する箇所である。差出先は高倉家に集中しており、たとえば天保4年10月28日に「三蔵宝物之内地紋之寫」3枚とあり、具体的には「御倚懸之紋」、「御茵辱之紋」、「荏田錦蓋敷之如御品之紋」と記されている。本条を筆頭として、以降在明は定期的に高倉家へ「紋」を提出する。高倉家は山科家とともに衣紋道にのっとり装束指導を行った家柄で、江戸時代には院中および将軍家・武家は高倉家が担当した(注9)。折しも在明の活躍期は宮廷のあらゆる行事について古儀復興がめざされ、正倉院宝物の写を行った在明に古代の文様を描かせることは、高倉家にとって必然であったろう。報告者は本助成研究の中で、このとき在明が提出したと考えられる史料が、現在國學院大學博物館に所蔵されていることを発見した。國學院大學神道資料展示室編集の『高倉家調進控 装束織文集成』(注10)に一部が紹介されている絵様のうち、「御文様御絵形元絵 丸文之類」や「御文様御絵形元絵 立涌襷続キ紋之類」をはじめとする冊子類にそれが含まれている。「御文様御絵形元絵 丸文之類」(以下、「丸文」)は79丁、「御文様御絵形元絵 立涌襷続キ紋之類」(以下、「続紋」)は64丁(いずれも表紙・裏表紙は除く)の糸綴本に仕立てられているが、元来は複数に分かれていた巻子(あるいはマクリ)を文様ごとにまとめ直したものである。それぞれ多少差異があるものの、おおよそ一つの文様について、①高倉家の人物が書いたと思われる文書②マクリだったと見られる文様の下絵③マクリまたは巻子装だったと思われる着色の下絵、が存在する。このうち③については複数枚存在する場合もあるが、②の下絵は1枚ないし、付属していない場合がある。すなわち、この手控が実際の装束に仕立てられる場合、以下のような過程があるものと想定される。⑴高倉家が装束の文様案を考える(手控①)。⑵文様を描ける人物に複数案を依頼し、下絵(手控②)を描かせた上でふさわしいものを選択する。このとき着用者などに伺いを立てるか。⑶染織を担当する家に下絵を渡し、下絵を写させる(手控③)。このとき、職人は下絵を墨線で写したのちに彩色し、再度高倉家の指導を受ける。― 360 ―― 360 ―
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