鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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⑴については、手控①の内容を見ると即座に理解されよう。次に問題となるのが⑵で、この段階で高倉家が依頼した相手、すなわち手控②を描いたのが原在明であると考える。手控の中に在明の名前は登場しないが、『臥游集』の記述と、①を対応させることによってこの仮説を裏付けることができる。たとえば、『臥游集』天保6年4月3日条には「高倉様」から「御紋」の注文があり、「右ハ洞中御用ノ趣」という注記がある。このとき複数の紋様を提出している中に、「三蔵 水鳥田字唐草」の「ツゝキ紋如立涌」という項目が見える。一方、國學院大學博物館蔵の「続紋」には「内府様御用 天保七御賀 八月以後調進」と裏書された一丁があり、表には白描の続紋が描かれている〔図1〕。左上には「三蔵」「水鳥田字草唐草」の墨書がある。これらは裏書とは別筆と見てよく、ここでは表に書かれた文字を『臥游集』と比較してみよう〔図2〕。すると、あくまで自らの手控えとして書いた『臥游集』と、高倉家へ提出した下絵という性格の違いから書体の違いは免れ得ないが、両者に全く同じ内容が記されている。つまり当時の内大臣、近衛忠煕のために用意された文様であることを記した裏書は高倉家の人間によって、そして「水鳥田字唐草」の文字は原在明が書いたものと考えられるのである。同様に、『臥游集』天保5年7月15日条「御小直衣御衣之類御紋」には「右関東用丸紋続紋等」の注記があり、在明は8種の文様を描いている。この中に「古巻物 太鼓紋 鳳シヨヒ唐草」の項目がある。ここで再度「続紋」を繰ると、「天保五午年八月御本屋ヘ出ス」という注記をもつ一丁がある〔図3〕。貼紙があり、「古巻物 鳳ニ薔薇唐草」と見える。薔薇の字はバラという読みの他にしょうびとも言い習わされており、在明はメモの際には簡単な表記としたのだろう。ここでは字数のために割愛するが、ほかにもこうした例は数々登場し、手控②を在明筆と見ることは疑いを得ないであろう。手控③について若干の検討を加えておくと、同じく高倉家調進控の一冊に「関東御召 御差出相成候御紋様御絵形」があり、「從天保二年 至同九年」、「御用場」の記載がある。先に紹介した2冊と同様、近代に装丁を調えたものとみられる。たとえばこの中から「大御所様御召 天保九年五月御差出 十弐通之内」という注と、「夏御小直衣縫板 薄黄地文葉 四文」の貼紙がある一丁に注目したい〔図4〕。水草に鯉の同じ丸紋が2つ描かれているが、下の方は白描で、さらに上部の彩色があるものとはもともと別紙に描いたものを貼り継いでいる。ここで別の冊子に仕立てられている「御文様御繪形 元繪 丸紋之類」を開くと、〔図5〕に示したような図案がある。〔図5〕には「古色紙形 鯉魚水草」、「倚 夏御小直衣文」という2枚の小札が貼られている。〔図4〕下図と〔図5〕はほとんど同じように見えるが、よく観察して― 361 ―― 361 ―

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