みると、〔図4〕の方は鯉の背びれと体との境ががたついており、また胸びれが体から離れてしまっている。尾ひれに向かって鱗が徐々に小さくなることを表現しきれず、鯉の輪郭線がぼやけてしまう結果となっている。〔図5〕の小札のうち「古式」云々の小札は在明筆とみられ、現在の装丁となる前には図の外、あるいは別紙に書かれていたものを切り貼りしたと考えられる。鯉の輪郭を正確に捉えつつ、漂う水草と交じり合うような複雑な文様を描くことに成功しており、こちらは本職の絵師と見るべきであろう。すなわち、〔図5〕が手控②、すなわち在明が先に提出した案で、〔図4〕はそれを何者か(おそらく織工などの職人)が写したと考えられる。さらに〔図4〕の上部は文様に彩色したものだが、胸びれが体から離れてしまっている点、水草が間伸びしてしまっている点などから考察するに、在明案ではなく同じ〔図4〕の白描を原画としている。こうして図様が少し変化してしまった例は他にも「高倉家調進控」の中に散見されるのだが、字数の都合上ここではいちいちを掲げない。以上のように『臥游集』を通して、これまで知られていなかった原在明の作例を再発見し、また高倉家を中心とした装束の制作状況の中で、在明が有職文様に通じていたことの特異性を発揮していたことが具体的に明らかとなった。3 原家旧蔵品の伝来についてさて、近衞家に仕えた渡辺始興のように、古絵巻を写しおいて家中に収めたり、献上したりすることは、江戸中期以降公家・武家のいずれにおいても頻繁に行われた。このことは注文主にとって貴重な資料を手許に置き、有職故実を辿るうえで重要であっただけでなく、特別な粉本を手に入れられるという点で絵師にとっても貴重なことであった。『臥游集』に記される限りでも、在明は『絵師草子』を描いたり、鷹司家によって『信貴山絵』や『春日権現験記絵巻』三巻を写したり、あるいは先に見た紋様についても「古絵巻」として『北野天神縁起絵巻』を参照したりしている。加えて原家の特別な粉本の一つに挙げられるのが、先に検討した正倉院宝物類であり、また在中の頃に春日絵所の株を得たことによる春日大社の絵馬板制作は、まさに特権的な粉本ともなりえた(注11)。この貴重な下絵が現在京都府の所蔵となっているが〔図6〕、左上に「原家蔵」の文字がある。これはたとえば『一枚起請文』(個人蔵)に見る在中の筆や、先に触れた在明、あるいは後述する在照の字とは異なっており、のちに原家の粉本が整理されたときに付されたものと考えられる。また、同じく京都府が所蔵する春日大社の絵馬板下絵に「原」の朱文方印が捺されたものがあるが、これも同じく在明・在照の時期に用いられたものとは考えにくい。― 362 ―― 362 ―
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