見した。元椿がこのとき拝見したのは北野社正遷宮に伴い偶然見つかった、「舞楽図衝立」の写しと見られる。『平田日記部類』41(宮内庁書陵部蔵)のうち、「石清水臨時祭御再興一会日記」文化9年7月5日条によると(注15)、この「新写」は、在明が鷹司家からの命で写したものと考えられる。このとき在明は「鷹司御家ゟ原在明被遣候而御新写有之旨、在明云四五百年以前ノ絵之由、乍去格別正キ絵ニ而者無之趣之旨、」と評したという。『臥游集』には、「北野内陣御衝立」という項目が何度か登場する。第一冊のうち、天保4年10月26日条では「一、御小衝立」として「北野内陣衝立障子之絵」という注記がある。注文主は鷹司家で、「童舞之図」を描くよう注文されている。その下に在明は小さく、「古図之通彩色、会釈可仕候事」と書き添えている。「会釈」や「会尺」という語は『臥游集』を通じて頻出し、たとえば「淀舟行図」を描く際に「八幡山ニてモ会尺」(注16)、あるいは「賀茂臨時祭」の「御衝立」を描く際に「砂子会釈」(注17)といった具合である。これらの例から推測すると、絵師の裁量に任されている点について、「会釈」ないし「会尺」と表現しているようだ。こう考えると、在明はこのとき彩色は「古図之通」、それ以外の図様に関して「会釈」すなわち本人の裁量に従って描くよう指示されたものと理解される。また天保5年3月晦日に鷹司家から「太鼓之図」を求められた際は、「権現記」、「年中行事」、「北野内陣衝立障子」を参考にするようにという注記がある。注目すべきはこれら3点の原本、すなわち『春日権現験記絵巻』、『年中行事絵巻』、そして『北野内陣衝立障子』はいずれも鷹司家が在明に写させたものである。鷹司家は家蔵の古絵巻や通常限られた神職しか出入りのできない北野天満宮内陣の衝立に基づき、新しい絵画を在明に描かせたのである。しかもその際に在明の意見をある程度受け入れていたことがうかがわれ、興味深い。このことは実は、第2章で見た高倉家との関係性の中にも見出される。在明の下絵を写し取った職人から、「これは一体何の文様ですか」と尋ねられ、「画師(調査者注:ママ)によれば、この文様は唐花だということだ」と、絵師(在明)の話を高倉家が説明する付記が掲載されているのである。さて、こうして古い絵図や文様を描かせた鷹司家は、その絵をどう活かしたのだろうか。『臥游集』の天保5年6月9日条には、鷹司家から「楽太鼓」の彩色という注文が寄せられている。このときにも「古代ノ形也、権現記天神障子等之内ノ図ニ寄考候事」と「天神障子衝立」を参考にすることが注記されている。在明はこれらの古画に基づき、太鼓の皮や縁、胴の色と文様を考えて伺いを立てたようだ。そして「右ハ仙洞御所ヘ御献上之由承ル」と記す。鷹司家から仙洞御所へ献上する重要な楽太鼓を― 364 ―― 364 ―
元のページ ../index.html#373