なる。同記録によれば康和3年(1101)に「善玄寺」上ノ堂が創建され、永久元年(1113)には不動堂が建立されて「紫舎屈山天福寺」と号したこと、不動尊と「人門菩薩」作の八十八仏が安置されていたことなどが知られる。禅源寺と天福寺の関係が不明であり、後世の記録であるため完全に信を置き難いが、内容から禅源寺上ノ堂は天福寺奥院を指すとみてよく、現存する本尊不動明王像の様式についても永久元年頃のものとみて矛盾しない。したがって、次に述べるこれまでの研究でも12世紀前半には現在の安置状況がほぼ成立したとみるのが一般的である。天福寺奥院の仏像が文化財として脚光を浴びたのは昭和49年のことであり、別府大学の賀川光夫氏、東京国立文化財研究所の久野健氏と猪川和子氏、九州歴史資料館の八尋和泉氏らによる本格的な調査がおこなわれたのが契機となった(注4)。この時には三尊像とみられる塑造の如来形坐像と二菩薩立像、僧形坐像が確認され、古代の宇佐に花開いた仏教文化の先進性が大きくクローズアップされた。これらの塑像についてはここでは深くは取り上げないが、脇侍菩薩像の抑揚に富む充実した体躯や柔らかい着衣表現などから概ね8世紀後半の制作と認められ、現在は国の重要文化財に指定されて大分県立歴史博物館の常設展示で見ることができる。二、木彫群に関する先行研究天福寺奥院の木彫群についてはいくつかの先行研究があり、概ね古代の宇佐地方で開花した仏教文化の展開の中で位置付けがなされてきた。ただ、制作時期については以下のような様々な見解が出されており、なお議論の途上にある。まず、久野健氏は台座蓮肉・心棒を本体と共木で彫出するなど古様な技法が用いられていることを認めつつ、同様の技法を示す福岡・浮嶽神社如来立像より彫刻表現が形式化しているとして11世紀後半から12世紀にかけてとした(注5)。次に、八尋和泉氏は塑土製螺髪の使用や簡略化された抑揚の少ない体躯表現などから、表面に塑土形成をおこなう木心塑像の伝統が生きていたと指摘し、10世紀から11世紀にかけてとした(注6)。その後やや時間を置いて渡辺文雄氏は、唐招提寺の伝宝生如来立像にみられるような奈良時代の塑土併用の木彫技法がある程度の時間をかけて宇佐に波及する状況を想定し、9世紀後半から10世紀にかけてと推定した(注7)。また、近年では大分県立歴史博物館が放射性炭素同位体による年代測定を実施し、木彫像の大半が8世紀から9世紀のものという結果が報告された(注8)。さらに、髙宮なつ美氏は比較的状態のよい21躯について作風分析をおこない、8世紀の塑造菩薩立像と木彫菩薩立像の間に共通性があることを指摘し、8世紀から9世紀初め頃まで遡ること、― 370 ―― 370 ―
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