そして吉祥天とみられる像については奈良時代に『金光明最勝王経』にもとづいて盛行した吉祥悔過の本尊であった可能性を示唆している(注9)。上記先学の研究を概観すると、年代観は初期のものほど下がり後になるほど上がる傾向が認められる。その背景には近年著しい日本彫刻史研究の進展があり、初期のものほど平安初期一木彫像が奈良時代に盛行した木心乾漆像や木心塑像から段階的に脱化して成立したとする従来の認識が前提となっており、地方ゆえの文化伝播の遅れや仏師の在地性という特性を考慮している点も影響していると思われる。こうした初期の考え方は、鈴木喜博氏による檀像概念を巡る研究(注10)や仏像の樹種に関するデータ蓄積(注11)、あるいは古代における官大寺僧の都鄙間交通や地方寺院経営の実態を明らかにした近年の研究成果(注12)に照らすと修正の余地があり、現時点では髙宮氏が指摘したように奈良時代まで含めた検討が必要であろう。三、調査データの分析本研究では主として天福寺奥院に伝来した木彫像のすべてにあたる69躯と台座などの残欠31点からなる計100点の調査をおこなった。うち39躯は大分県立歴史博物館に展示・保管されており、ほかは天福寺奥院に安置されている。また、参考として作風が類似する豊後高田市・内野観音堂の木彫像6躯、東京都の個人蔵木彫像1躯の調査をおこなった(注13)。調査データ〔表1〕は名称・総高・品質・内刳りの有無・形状・構造技法・保存状態の順で記述し、像の並びは便宜上、如来・菩薩・天部・僧形・明王・その他・残欠の順とし、所蔵別に通し番号をつけた。(1)天福寺奥院①像種について木彫群を像種で分類すると如来形像が20躯と最も多い。このうち立像は17躯、坐像は3躯含まれるが、大半が手首先を亡失しており当初の尊名は不明である。菩薩形像は14躯含まれ、うち1躯が坐像とみられる。立像はいずれも髻を結い条帛・天衣・裙または腰布を着けて直立する。尊名は朽損のため判断しにくいが、聖観音とみられるものが8躯、頭上面を取り付けた痕から十一面観音とみられるものが1躯〔図5〕、そして多臂像とみられるものが5躯含まれる。多臂像はいずれも両手肘先を亡失するが、左右上膊後方を面取りして鉄釘で数本の脇手を取り付けた痕跡が残り、肘部の形状から当初は両手を正面に構えて合掌する姿であったと思われる。尊名は千手観音または不空羂索観音が想定でき、脇手の本数からみて不空羂索観音であった可能性が高い。なお、多臂像のうちNo.32には頭上面の痕跡が残る。― 371 ―― 371 ―
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