如来形像も同じ仕様であった可能性がある。また、如来形坐像(No.18)〔図3〕は面部に塑土と漆を併用した表面仕上げが残る。菩薩形立像(No.21)〔図4〕も天衣を表さないことから、当初は塑土などで表面を仕上げていた可能性があろう。先行研究では触れられてこなかったが、瞳に異材を嵌入した痕跡を残すもの(No.6・56)〔図2、9〕があることも特筆される。こうした技法は東大寺法華堂・塑造執金剛神像や唐招提寺・木造伝大自在王菩薩立像など8世紀の作例に認められ、台座蓮肉・心棒を彫出する構造と共に制作時期の指標となり得る。また、異材使用と関連して女神形像の大半が蔽膝の左右に別材製の飾り(いずれも亡失)を鉄釘で取り付けた痕跡を残すことも注意しておきたい。中には取り付け用の孔を穿つもの(No.45)があり、No.43〔図8〕の大袖先端にも天衣遊離部を取り付けたとみられる孔が残る。平安初期彫刻は檀像概念を基礎に展開したため一材彫出性を重視する傾向が強いが、本木彫群に関しては必ずしもそうした意識は徹底されていないように見える。そのほか、木彫群全体を通して言えることとして、納入品を納めたかとみられる仕口をもつものが散見された。如来形立像(No.14)では体躯各部に埋木があるほか、女神形立像(No.45)では背面中央に長方形の板材(亡失)を嵌めた痕があり、中央に直径約5cmの円錐状の孔が穿たれていた。女神形立像(No.46)も後頭部の節穴を刳り抜いて別材製の埋木をしており、同様の用途をもっていた可能性があろう。④形状について如来形像は左手垂下・右手屈臂のものが大半を占め、着衣は衲衣(右肩に少し懸ける)と裙を着けるだけのものが多い。ただ、衲衣を通肩に着けて正面にU字状の衣文を刻むもの(No.14)、覆肩衣と衲衣を併用するもの(No.15・16)もあり、うちNo.15は京都・神護寺薬師如来立像のように両手を正面に突き出すような構えをみせる。菩薩形像のうち聖観音像とみられるものには、左手屈臂・右手垂下(No.21・22)とその逆のもの(No.23・24・25)がある。観音像が独尊として造られる場合は右手垂下が一般的であるが、法隆寺・聖観音菩薩立像(夢違観音)のような逆手の例もある。着衣形式については、天衣が膝前を巡らず肩から左右の肘に懸かって外に垂下するもの(No.22・23・29)があることが注目される。同様の天衣は飛鳥・白鳳期の金銅仏に例があるものの奈良~平安時代の畿内作例にはほとんど見出せず、むしろ福岡・長谷寺十一面観音立像のような九州の平安一木彫像に間々見出すことができる。天部形像のうち神将形像はいずれも吹き返し付きの兜と細部を彫出しない簡潔な甲― 373 ―― 373 ―
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