寺伝薬師如来立像や神護寺薬師如来立像など8世紀から9世紀の木彫像に通有の表現であり制作時期をはかる指標となろう。ただ、全体を通して注意せねばならないのは、いずれも神護寺薬師如来立像のような塊量性には乏しく、衣文も深く鋭い翻波を刻んでいない点である。このような完成された平安初期一木彫像との表現の差については一木彫像として未完成であったという解釈も可能であるが、在地性の問題や塑土を併用する技法の問題も含めてなお検討の余地があるだろう。⑥残欠について木彫群中には仏像の断片と台座の一部とみられる残欠が31点含まれる。このうち特筆されるのは、塑像の心木とみられるNo.70である。形状はざっくりと頭部と体部の分節だけをあらわした角柱状で、天福寺奥院から発見された塑像の心木と酷似している。現存する塑像4躯のほかにもさらに塑像が存在した可能性を窺わせる。台座の残欠は反花から框にかけての下部材とみられるものが多く、No.81のように円形で扁平な形状のものが目に付く。材質は針葉樹材とクス材の二種類があり、宣字座の天板と框であったとみられるクス材製のものが含まれる。(2)内野観音堂国東半島の西部、豊後高田市小田原にある内野観音堂には6躯の木彫像が残る。このうち中央の菩薩形立像(No.2)〔図11〕は像高192.5cmを測る像で、カヤとみられる一材から全容を彫出している。各部に焼損が残り両肩先も欠損するが、厳しい面貌や堂々たる体躯、胸飾を彫出する点など8世紀彫刻に通じる趣がある。また、両肩部の後方には釘で脇手を取り付けた痕跡が認められることから、当初は不空羂索観音のような多臂像であったと考えられる。着衣は条帛・天衣・裙・腰布を着けるが、特筆すべきは腰布を二段に着けて正面に「腰帛」と称される帯状の布を巡らす点で、共に伝来する菩薩形立像(No.3)も同様の着衣形式を示す。こうした特徴は9~10世紀の制作とみられる福岡・荘厳寺聖観音菩薩立像など北部九州に残る平安一木彫菩薩像に散見されるものであるが、本像は荘厳寺像などの先行例として注目される。No.5は吉祥天とみられる女神形立像で、蔽膝の左右に別材の飾りを取り付けた痕跡が残る点も含めて天福寺諸像と類似する。また、この像の頭部右後方には長方形の孔が穿たれており、納入品用の仕口であったと考えられる。菩薩形坐像(No.4)は、腰部の形状から当初は右脚を踏み下げる形式であった可能性が考えられる。宇佐に近い耶馬渓・青区の妙見窟には、虚空蔵菩薩とみられる2躯の片足踏み下げ像が伝来するが、このうちの一躯と宝冠の形状や手勢などが共通する。― 375 ―― 375 ―
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