鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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(3)東京都個人所蔵現在、個人蔵となっている菩薩形立像〔図12〕である。やはりカヤとみられる針葉樹材からほぼ全容を彫出した無垢の一木造で、左手屈臂・右手垂下の姿から聖観音と思われる。直立する腰高の体躯や球状の髻、着衣の形式、衣文表現など天福寺奥院の菩薩形像(No.21)〔図4〕と類似する要素が多く、額中央で髪際を左右に分ける点も共通する。伝来は不明であるが、当初は宇佐周辺にあったものと考えられる。まとめ以上、天福寺奥院木彫群などの調査データをもとに分析をおこなってきた。問題は多岐にわたるが、明らかになった点と今後の課題について述べる。まず明らかになった点としては、尊像構成が判明したことが挙げられる。特に菩薩形像の中には内野観音堂も含めて不空羂索観音とみられる多臂像がかなりの割合で含まれていたことは注目すべきである。豊前・国東地域に目を向ければ、他にも北九州市・謹念寺、豊後高田市・天念寺、国東市・旧虚空蔵寺にも平安中期以前に遡る作例があり、古代の宇佐地域における多臂観音像の重要性が窺われる。尊像構成の点では吉祥天とみられる女神形像と僧形像の多さも看過できない。木彫群の制作時期の問題は残るとはいえ、僧形像の中には持戒の菩薩僧をあらわしたとみられる着衣形式のものがあり、神仏習合の思想が色濃く影響しているようである。宇佐八幡宮が奈良時代から積極的に神仏習合を推し進めた歴史を踏まえると、一連の僧形像は八幡神が出家した姿であった可能性があろう(注17)。また、想像を逞しくすれば、僧形像とほぼ同数の女神形像も、八幡神の配偶神である八幡比咩神を吉祥天の姿を借りて造像したものとは考えられないだろうか。仮にそうであれば、日本の神仏習合や神像成立の考え方にも少なからず影響を及ぼす可能性がある。北部九州の平安一木彫像との関係については、現段階では木彫群の制作時期を確定するには至らないため、なお検討が必要であろう。ただし、今回の調査では従来よりも格段に情報量が増え、木彫群の中に奈良時代彫刻に通じる構造や表現を数多く見出すことができ、先行する蓋然性がさらに高まったと言える。また、内野観音堂の菩薩形立像に「腰帛」が確認できたことも大きな収穫であり、こうした特殊な着衣形式が宇佐に淵源する可能性も視野に入れることができた。今後も周辺地域に残る木彫像の調査を継続し、九州における古代木彫像成立の全容把握に努めたい。― 376 ―― 376 ―

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