タホマ(1920-1956)の《ナバホの土地》(1935年)〔図1〕は、前景に羊の群れ、中景に八角形の枠組みに盛り土をした伝統的な住居ホーガン、さらに遠景に浸食した岩、山脈を簡潔な形態で描いている。タホマは、ナバホ族が儀礼のために作る砂絵を参照しており、虹を表す、青と赤の帯で画面の下半分を囲い、帯の両端にはサボテンと赤い花をつけた植物を、そして空には同じく砂絵に見られるナバホの超自然的存在「ホーリー・ピープル」に似た、角の生えた抽象的な顔のモチーフを描いている(注9)。1934年から1943年まで、ナバホ居留地では、南西部一帯の大干ばつや過放牧による土壌浸食に対応するため、連邦政府が灌漑設備の整備や強制的な家畜の頭数削減、放牧許可証の発行や羊の品種改良を含む土壌保全プログラムを実施し、急速な変化がもたらされつつあった(注10)。歴史家マーシャ・ワイジガーは、土壌保全プログラム失敗の原因は、当時の科学的理論に基づいて、合理的で正しいとされる施策を選択したエリートが、南西部の気候やナバホの社会的・文化的文脈を過小評価したことにあると分析した(注11)。特に、ナバホにとって社会的・文化的に重要な意味を持っていた家畜を拙速に大量殺処分したことに加え、当時大多数のナバホが英語話者ではなかったことによる行政のコミュニケーション不全が、混乱をもたらし、賛成派と反対派の間の対立を悪化させた(注12)。さらに、代替となる産業の受け皿が不十分であったため、土壌保全プログラムは牧畜を生活の糧としていた多くの世帯を経済的に不安定にした(注13)。これに対して、先述の《ナバホの土地》のように、SFISのナバホの生徒たちは、土壌保全プログラムが推進しようとした、居留地の近代化を象徴しうるような、自動車や柵、灌漑設備といった、モチーフを風景に描かなかった。そのため、生徒たちは風景表現を通じて、当時ナバホ居留地を二分した土壌保全プログラムに明示的に言及することを避けたように見える。本稿はストゥディオ様式絵画の理想化された先住民伝統文化の表象を、同時代の具体的な政治・社会状況との関りで理解する試みとして、ナバホ生徒による居留地の風景表現に注目する。1930年代のSFISにおけるナバホ生徒による居留地の風景表現には、世界恐慌の余波が残る中、居留地の外で生活する術を見つけようとする生徒たちの関心が読み取れる。先行研究の整理:20世紀の合衆国南西部先住民絵画の研究は、1990年代には先住民文化表象とプリミティビズムの関係に注目して、ダンやニューメキシコ博物館、パトロンとなったサンタフェの文化サークルを分析した(注14)。ダンの生徒より上の世代の、アワ=ツィ― 393 ―― 393 ―
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