よう、居留地へ戻ることを推奨した(注26)。またそれは、先住民は居留地で農業に従事し、理想の共同体を維持すべきであるというOIAのユートピア的なインディアン像にも適っていた(注27)。しかしながら、同寄宿学校の生徒の出身地である各居留地の経済も、既に賃金労働が重要な位置を占めており、生徒たちは学校卒業後も奨学金を得て進学したり、仕事を見つけ都市部に残ろうとした(注28)。SFISのナバホの生徒たちの1930年代の経験もまた、居留地で土壌保全・家畜頭数削減プログラムによって暮らしが大きく左右された上の世代のナバホ達とは異なるものだっただろう(注29)。1936年5月発行の『テワヨ』には、卒業生の一人オスカー・B・ランナーによる同級生の卒業後の未来予想を描写した記事が掲載されている。B・ランナーは、大都市に変貌したサンタ・クララ・プエブロの集落や、運転手や音楽家、政治家といった職業に従事する生徒たちを描写した(注30)。同記事は非現実的ながら、生徒たちの都市的な生活や、そこでの社会的成功への憧れを反映している。ニューメキシコ州最大の都市アルバカーキの、アルバカーキ先住民寄宿学校(Albuquerque Indian School、AIS)では、1930年代に美容師コースが開講されており、OISの意向にも関わらず生徒からは人気が高かった(注31)。ダンの授業を受けたナバホの生徒も、概ね農業・牧畜業ではなく、居留地の外での就職、あるいは進学を希望した。クインシー・タホマやジェラルド・ネイラーら、卒業後すぐに画家として独立できたナバホの生徒は、そのままサンタフェを拠点に生活した(注32)。ハリソン・ビゲイはSFIS卒業後、大学に進学するための準備としてサンタフェやアリゾナ州フェニックスで予備課程を取っていた(注33)。メアリー・エレンは1940年に卒業した後、サンタフェで針子として働き、1941年初頭にアルバカーキに移った後も、針子として働いている(注34)。シビル・ヤズィーは卒業後居留地に戻ったが、学校に宛てた手紙の中で、SFISで美術教師になるための2年間の特別プログラム受講の希望を綴っており、戦後も大学に進学しようとしていた(注35)。キーツ・ビゲイはSFISで同プログラムを受けたのち、第二次世界大戦に従軍するまでAISで銀細工の教師として勤務した(注36)。スタンリー・ミッチェルは、在学中にイエローストーン国立公園で銀細工師として働き、1943年にネバダ州のマグネシウム採掘の会社に応募している(注37)。このように、ナバホの生徒達の卒業後の進路の断片的な情報からは、彼(女)らの関心が居留地の外の可能性に向かっていたことを示している。それでは、牧歌的な居留地の風景表現は、そうした生徒達のどのような政治的・社会的関心を反映していたのだろうか。― 396 ―― 396 ―
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