1936年の『スクール・アーツ』誌掲載の、ポップ・チャレー(タオス・プエブロ)名義の記事「私のひとびとの芸術」は、数少ない1930年代時点でのダンの生徒によるストゥディオ様式絵画論である(注38)。彼女は、ストゥディオ様式絵画とは、記憶に基づいて、儀礼や狩猟、故郷での生活を描き、またそれらからデザインを生み出すことで部族の文化を絵画に記録・保存するものであると述べている(注39)。また、ストゥディオ様式絵画は、生徒たちがそれぞれ出身部族の特色となる儀礼や習俗を描いたものであり、彼女は各部族の特徴的な主題・モチーフを列挙する中で、ナバホらしいモチーフとして、儀礼に用いられる砂絵に加えて、馬や野生動物、砂漠の土地に見られる多様な植物といった、ナバホ居留地の風景を特徴づける動植物に注目している(注40)。キーツ・ビゲイの《ナバホの土地》(1938年)〔図6〕は、浸食によってできた赤い砂岩の崖に挟まれるように広がるなだらかな丘陵地、その中程にホーガン、逆釣り鐘型に単純化したこの地域の低木セイジブラシ、地平線上には浸食でできた岩山、空には幾何学的な図形からなる抽象的なモチーフと、ナバホ居留地の風景を簡潔かつ装飾的な様式で描いている。ビゲイの風景表現も、ポップ・チャレーが言及したような砂漠の土地の特色を表現したものだと言えるだろう。さらに、彼女は、芸術は「異なる人種についてのより良い理解を作り、ひとびとの思考や感情を明らかにするもの」であり、「私たちの絵画を通じて白人にわたしのひとびとの素晴らしい思考や感情を届ける」(注41)ものであると述べている。1930年代の合衆国における美術の言説では、人種・民族的マイノリティーの作家が、自らの人種的アイデンティティーに由来する内的な何かを芸術表現に昇華することは、非白人グループに与えられたネガティヴなイメージを払拭し得ると考えられていた。例えば、1928年から1933年まで黒人の芸術家を奨励するためにハーモン財団が開催した、ハーモン年次展も、黒人芸術家による「真正な」表現を通じて黒人文化の価値を提示しようとするものだった(注42)。芸術表現を通じて社会的地位向上を図ることは、ダンの生徒たちにとっても切実な動機足り得た。スタンリー・ミッチェルが、先述のマグネシウム採掘の会社に応募した際、会社からの問い合わせに、当時のSFISの校長シルビア・ドーウェイラーは、「乏しい英語力が誤解を招く傾向にある」と彼を評している(注43)。キーツ・ビゲイも、演劇部の活動について「英語は彼にとって非常に困難であるものの、彼は話し方を向上させるあらゆる機会を捉えた」と評されている(注44)。ダンの下で絵画を学んだナバホの生徒たちは、概ねナバホ語が主要言語の家庭出身で、人種差別に加えて、言語の壁でも困難を経験しただろう。だからこそハリソン・ビゲイは、大学進学のため― 397 ―― 397 ―
元のページ ../index.html#406