鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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いる。塩谷氏の紹介する図版によると、前者は故事や物語に取材したものや宮中風俗、花鳥草虫、後者は庶民風俗、江戸名所・祭礼、美人で構成されている。清国の画帖は北京の故宮博物院が所蔵しており、狩野永悳、三代広重、国周が参加し、跡見花蹊も名を連ねている。これらの画帖は明治時代初期という近代国家としての日本の黎明期に外国との友好の印として制作されたものであり、その参加は絵師として非常に大きな意味を持つものだと考える。本来であればこの2帖の画帖の調査をすべきだが、感染症拡大の影響で渡航が叶わず、また画像等の取得も難しい状況であったため、次の機会を待ちたい。その後は主に東京、横浜の絵が続くが、明治8年には「東海名所改正道中記」で近代的なインフラが整備されつつある東海道の景観を描いている。同9年には全74図からなる「日本地誌略図」、そして同10年には第1回内国勧業博覧会に出品された「大日本物産図会」など、東京、横浜、東海道、そして日本全国へと描く対象が広がっていることが見て取れる。しかしその後は東京名所を描いた作品が圧倒的に多く、地方を描いた作品は少ない。一方で明治11年届「小学校教育双六」(国立教育政策研究所教育図書館蔵)、明治14年届「婦人教訓鏡」(東京家政学院大学附属図書館蔵)、明治20年届「英語図解」「流行英語尽」(慶應義塾大学メディアセンター蔵)といったような、教育や教訓に関わる図をコンスタントに手がけていることがわかった。教育への関心と需要の高まりに伴い、浮世絵師たちは教育錦絵に取り組んだが、三代広重もその例に漏れなかった。晩年の明治23~25年には「近江八景全図」(東京都立中央図書館蔵)、「諸国六玉川」(国立国会図書館蔵)、「撰出江戸四十八景」(早稲田大学演劇博物館蔵)といった、初代広重の作品を再び世に出す、復刻の動きが見られる。実際この時期は初代広重作品が珍重されたようで、新聞にもその評判について記述が確認できる(注2)。明治24年の「小学教育大日本名所図会」(舞鶴市糸井文庫蔵)を最後に三代広重としての新たな作品は確認することができなかったため、晩年は主に初代広重の顕彰に努めたことがわかった。1.画業開始の時期画業全体については、横田洋一氏が「三代広重と文明開化の錦絵 附 三代広重《下絵画稿集》目録」(注3)にて先行研究をまとめており、現時点で最も詳しく記述がなされている(注4)。これに倣うと、三代広重は文久年間(1861-1864)頃に重寅の名で作画を始め、のちに一笑斎重政と号している。重寅時代の作品は確認できないが、― 405 ―― 405 ―

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