鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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重政に関しての根拠は2つある。ひとつは元治元年夏日との序文がある『絵本江戸土産』九編の表紙見返しの挿絵に「重政」の落款があること、そしてもうひとつは初代広重が天保12年(1841)に甲府を訪れ制作した幕絵「東都名所 目黒不動之瀧」に代わるものとして、元治元年(1864)に二代広重が「東都名所 洲さき汐干狩」(注5)を制作する際、門弟らも甲府に同行し肉筆画を描いているが、この中に「重政」の落款を有する絵が2点確認できることである。この肉筆画は貼交屏風として仕立てられ現存する(注6)。一方で今回、それよりも早い元治元年2月の改印のある「江戸の花名勝会 せ 二番組 中橋」に「重政」と「一笑斎」の落款を確認することができた(注7)。このシリーズは貼交絵の形式で描かれたもので、本図は上部馬の絵に「一笑斎」、下部右の山王祭の山車人形の絵に「重政」の落款がある。おそらく別々の絵師という体裁で描いていると考えられる。翌々年の慶応2年(1866)に初めて「一笑斎重政」の号を用いた「東海道五十三駅道中寿吾六」(国立国会図書館蔵)を確認できるが、それよりも前に「一笑斎」と「重政」を別々に、かつ同時に用いていることは大きな発見であった。甲府での肉筆画の制作時期が定かではないため断定はできないが、少なくとも『絵本江戸土産』よりは確実に早い時期であるため、現時点では画業開始の時期を元治元年2月として考えても差し支えないのではないだろうか。この件で興味深いのは「一笑斎」の落款の下に、初代広重が用いた「ヒロ」の紋が記されていることである。後述するがこの時点でまだ重政は「広重」を襲名していない。更に翌年元治2年正月改の「江戸の華名勝会 ふ 五番組 青山」に重政の描いた西行と富士の図が確認できるが、ここにも重政の落款と「ヒロ」紋が記されている。「江戸の花名勝会」には二代広重も参加しており「広重」の落款を有する図を複数確認できるが、その中に「ヒロ」紋を用いた図は一つも確認できない。二代広重が健在の中でのこの行為はどう考えたらよいだろうか。自らが広重の後継者であるという強い自意識のあらわれか。2.広重襲名の時期慶応元年(1865)に二代広重は初代広重の養女・辰と離縁し、立祥と号を改める。この後に重政は辰に婿入りする。先行研究では、慶応3年3月改の「横浜商館之図」に「一立斎広重」の落款を確認できることから、この頃が襲名の時期であったと考えられている。報告者はこの間に約2年の空白期間があることを疑問に思っていたが、今回慶応2年4月改の「子供行列遊」(ボストン美術館蔵)を確認することができた。― 406 ―― 406 ―

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