「広重」の落款を有する、江戸城を背景に上洛を見立てた子供の行列の図である。子供の表情や仕草は、このあと明治元年(1868)に「歌重」または「歌しげ」の号で描いた「子供遊どろ合戦」(早稲田大学図書館蔵)などの子供を主役とした戯画の表現にも通じるところがある。二代広重も立祥へ号を改めた後に「広重」を用いることがあったが、管見の限りでは名所絵が多くを占めるため、「子供行列遊」は三代広重の手によるものと判断する。そうなると先行研究で考えられていた慶応3年3月よりもほぼ1年近く、襲名時期は早かったと考えられる。しかし、このあと慶応2年5月改の「横浜風景之図」(早稲田大学図書館蔵)は「重政」の落款、10月改の「諸道具寄噂はなし」(東京大学史料編纂所蔵)には「一立斎重政」の落款が見られ、「広重」の落款を有する作品が続かないことから、襲名以降「広重」号の使用には慎重な姿勢であったことが伺える。しかし同年12月改の「金性二月七日卯の刻うけに入酉の年迄七年の間有気也」(国立国会図書館蔵)には「一立斎」の落款とともに「ヒロ」紋が記され、その翌月慶応3年正月改の「金性之人有卦ニ入 二月一日」(国立国会図書館蔵)には「広重」の落款が確認できることから、少なくとも慶応2年12月の時点では確実に「三代広重」としての画業がスタートしていたといえるだろう。3.書画会についてかなよみ新聞、読売新聞の紙面及び広告によって、複数回書画会の会主や幹事を務めていることがわかった。最も早いのは明治10年(1877)5月13日、両国中村楼で開催された書画会で幹事を務めており(注8)、続く7月1日には先師追善書画会を会主として行なっている。出版会社、団扇会社、書肆会社の補助のもと行われたようである(注9)。次に書画会への関与が見られるのは、同11年7月21日、両国中村楼における「珍猫百覧会」の周旋補助である。この会は仮名垣魯文が会主となり行われたもので、同年3月に刊行された仮名垣魯文編『百猫画譜』(国立国会図書館蔵)の挿絵を三代広重が描いたことによる縁であると考えられる。その次は明治15年4月16日、向島の秋葉神社に初代広重の碑を建て書画会を開催し、「建立の報条」を摺物にして配布している(注10)。また明治18年3月20日には、浅草大代地の名倉において書画会を開いている(注11)。明治時代前半の浮世絵師と書画会については今後さらに調査をする必要があるが、三代広重の場合は明治10年から18年の間で4回、主体的な関わりを確認することができた。これらの時期を検討してみると、あるひとつの可能性が浮かび上がる。まず明― 407 ―― 407 ―
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