鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
417/549

治10年の書画会だが、その前年の11月29日に火災で中橋大鋸町4番地の自宅が焼失し、初代広重の遺稿や下絵の類まで全て燃えてしまっている。この火災に際し、多くの人物から見舞いが寄せられていることが、渡邉晃氏による調査で明らかになっている(注12)。また明治18年の書画会は、その翌年に歌川豊広の六十回忌の法要を控えており、ここでは「師祖豊広翁像」(ボストン美術館蔵)を摺物にして配布している(注13)。明治15年の書画会も碑の建立が伴っていたことから、いずれもまとまった金銭を必要とするタイミングであったといえるだろう。大久保純一氏は書画会の開催に対し、「主催者側にとっては金銭収入をあてにするというきわめて実利的な目的を持つものであった」と述べており、三代広重においてもそのような意図があったのではないだろうか(注14)。また偶然かもしれないが、明治10年8月から始まった第1回内国勧業博覧会には、大倉孫兵衛から「東京名所図」「大日本物産図会」(早稲田大学図書館蔵)が出品されているが、それとは別に安藤広重としても出品をしている。更に明治15年10月から始まった第1回内国絵画共進会には「歌川派 号広重 安藤徳兵衛」の名で肉筆画「函根六景」「江之島図」を出品していることが確認でき、これらがちょうど書画会の開催と同年にあたるのである。博覧会及び共進会における出品の費用負担については今後詳しく検討する必要があるが、資金調達のための書画会であった可能性も考えられないだろうか。4.吉原の灯籠の制作新聞記事により、明治11~13、23年(1878~1880、1890)に吉原の灯籠の製作を手掛けていることがわかった。明治11年7月1日から諸国名所、物産図を描いた灯籠130基が灯り、7月16日からは花鳥、美人図に交代する。7月10日からは根津には東海道名所と近江八景の図が150基灯る、との記述がある(注15)。おそらく前年の内国勧業博覧会で「大日本物産図会」が好評を博したため、物産図が主題に名を連ねているのだろう。同年に立斎広重/安藤徳兵衛の号で「大日本物産双録」(カリフォルニア大学バークレー校蔵)も描いていることから、物産絵がこの時期最も力を入れたテーマであったといえそうだ。明治12年の灯籠は「お萬が飴に豊年おこし牛肉店に山くぢら」といった今と昔の見立て合わせであったようだが、これに関する下絵等を見つけることはできず、詳細はわからなかった。また明治13年の記事に「今年の吉原の灯籠の趣向は諸国名所絵合といふ題で景色は例の広重の筆にて…(後略)」とあり、毎年の定番の仕事となっていた様子が伺える。しばらく期間が空いて次に確認できる― 408 ―― 408 ―

元のページ  ../index.html#417

このブックを見る