鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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のは明治23年だが、この時も景色を描いているようである(注16)。この空白期間のうち、灯籠制作が行われなかったか、単に記事にならなかったかは定かではないが、広く衆目を集める場での大きな仕事は、三代広重という存在をより知らしめるものであっただろう。5.転居の回数明治8年(1875)9月3日に発布された新出版条例により、改印制度は終了し、出版物には発行年月日が明記されることになった。画工と出版人の氏名、居住地も合わせて記載されることになり、三代広重においても同年に出版された「東京開化三十六景」シリーズの中にはじめて「大鋸町四番地」(現在の中央区京橋一丁目付近)の記載がある。その後明治9年の火災までこの地に住んだといえそうだが、明治10年2月届の「荒布橋従江戸橋之真図」(マスプロ美術館蔵)まで大鋸町四番地の記載がみられた。制作から出版までの間に期間があったか、居住地の情報が更新されていなかった、など考えられるが、いずれにしても慌ただしくしていた様子が伺える。その後明治10年10月届の「小学校教授双六」に「弓町十八番地」(現在の中央区銀座二丁目付近)とあることから、横田氏は10月頃にはこの地に転居していると指摘している。確かに同月16日届の『東京懐中案内』二編(国立国会図書館蔵)のうち「有名の画家」に「京橋弓町 一立齋廣重」の記載も確認ができたため、10月に弓町にいたことは間違いないだろう。しかし火災から間が空きすぎている。明治10年の内国勧業博覧会における出品目録を確認したところ、第二区・製造物のうち第五類・造家並ニ居家需用ノ什器の中に、「額(一)杉唐紙山水色画硝子張、画芝口三丁目安藤広重 同地近藤半兵衛」との記述が確認できた。また第三区・美術のうち第二類・書画の中にも「額(一)画絹、名所人物画、緑、職工芝口三丁目近藤半兵衛 同町安藤広重」とある。このことから、この博覧会の頃には芝口三丁目(現在の港区東新橋一丁目付近)にいたようである。火災の後一時的に芝口三丁目に住み、その後弓町に移動したということになるだろう。しかしこの弓町時代も1年ほどであったようで、明治12年1月届の「東京名所之内 新橋ステンシヨン」(港区立郷土歴史館蔵)には「南紺屋町廿七番地」(現在の中央区銀座一丁目付近)の記載が確認できる。比較的近場の移動ではあるが、短期間で複数の転居を行っていたことがわかった。南紺屋町時代は比較的長く、明治16年11月届「不二詣諸品下山之図」(早稲田大学図書館蔵)に「旅籠町一丁目二番地」(現在の台東区柳橋一丁目)の記載がみえるま― 409 ―― 409 ―

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