鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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注⑴ ウイーン美術史美術館のアンブラス・コレクション取得簿の1873年の項目中、日本の帝からので、4年近くは南紺屋町に留まっていたようである。なお同月の「新撰謎々合」(国立国会図書館蔵)には「旅籠町二丁目一番地」のとの記載もある。翌年の明治17年になってからは旅籠町二丁目一番地、旅籠町一丁目、南紺屋町廿七番地、旅籠町二丁目の4種類の住所が確認できるため、転居か情報の錯綜か、判断が困難である。しかし明治18年には旅籠町一丁目二番地で落ち着くため、この地にいたことは間違いないだろう。その後明治21年は「東京名家四方一覧」のうち「畫家」に「錦画 久松丁 安藤廣重」の記載があり、「全国書畫名家集覧」のうち「真景」に「ハマ丁 安藤廣重」の記載があるため、この年のうちに久松町(現在の中央区日本橋久松町か)と浜町(現在の中央区日本橋浜町か)の移動があったことが伺えるが、極めて近い距離のため混同があった可能性も考えられる。一方で明治22年12月届「東京大画家派分一覧表」のうち「歌川派」には「下平右エ門 安藤廣重」の記載があり、1年足らずで下平右衛門町(現在の台東区浅草橋一丁目、柳橋一丁目付近)に転居しているようだ。その後は明治25年の「東京名家見立一覧」に「景色 久松丁 安藤広重」とあることから、再び日本橋久松町に戻ってきたようである。そして没年の明治27年だが、この年に三代広重が知人に送った書簡の差出人住所には「日本橋区浪花町二十四番地」の記載がある(注17)。渡邉氏も言及しているが、浪花町(現在の中央区日本橋人形町二丁目、日本橋富沢町付近)も久松町から近い距離にあるため、転居したかは判断が難しい。以上、画中の記載と番付の記述等だけでも、19年間で12箇所の住所を確認することができた。同一の場所を指している可能性もあるが、比較的転居の回数は多い分類に入るだろう。以上が本研究で新たにわかったことである。目録・年表の作成を行ったことで、今まで漠然としていた三代広重の作品の全体像を明らかにすることができ、また画業開始時期や広重襲名時期については新たな展開を見せることができた。一方で、太田記念美術館と広重美術館(山形県天童市)、神奈川県立歴史博物館にて下絵帖を実見していたが、内容が非常に多岐に渡るため、実際に出版された浮世絵との照合作業を十分に行うことができなかった。本研究の成果をもとに、今後は下絵帖の検討を進めていきたい。― 410 ―― 410 ―

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