鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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の流域で営まれる様々な生活の様子が鳥瞰図的に描かれている。画面下部では、神殿などの建築物や、ナイル河の水位を測るナイルメーターなどが描かれ、文明的に発展しているナイル川河口のデルタ地帯(下エジプト)が描かれている。一方で、画面上部では人々は動物を追いかけて狩りをしており、まだ文明化されていない土地として上エジプトが対比的に示されている。《パレストリーナ・モザイク》が地誌的な正確性を示す一方で、ポンペイでは、より象徴的なモティーフのみが抜き出されている作例が多い。例えば、「ファウヌスの家」(Casa del Fauno: VI 12, 2)のエクセドラには《アレキサンダー・モザイク》が敷かれていたが、その周囲にはナイル河の生き物たちを配した「ナイルモザイク」があった〔図2〕。ワニやカバのほか、ハスの花を咥えたカモやアオサギ、ヘビやマングースなど、エキゾティシズムを感じさせる動植物が並んでいる(注9)。また、「外科医の家」(Casa del Medico: VII 5, 24)の擬ペリステュリウム(pseudo-peristyle)では、柱の下部を覆う壁の側面に「ナイル河風景画」が描かれている〔図3〕。ここではナイル河流域の暮らしを戯画的に表わしており、描かれた人物の肌は黒く、頭身も低く表現されている。ピグミーと呼ばれるこうした人物像は、エジプト表象のひとつとして用いられていた(注10)。そうしたピグミーたちによる性的な場面も、この「ナイル河風景画」の代表的な場面のひとつであった。以上のように、ローマの作例におけるエジプトを示すモティーフは、宗教的なものとそうでないものを含めて多くのパターンがある。しかし、それらすべてが実際のエジプトイメージと一致しているわけではない。例えば、「外科医の家」の作例にある極端に頭身の低いピグミーたちは、実際のエジプト人を戯画的に誇張して描いているものであり、そうしたピグミーたちが性的な行為をしている場面もお決まりのテーマだが、当時のエジプト人たちの実際の行為を写したものではない(注11)。また、人物の周囲に描かれる木々も、エジプトの植生に寄せてはいない。その一方で、「ファウヌスの家」のナイルモザイクは、動植物の表現が自然主義的であり、実際のエジプトの状況と近いものが描かれている。また、これらのモザイクの材料にはエジプト産のファイアンスが使われており(注12)、モティーフのみならず工法もまた実際のエジプトに近づいていることがわかる。3 帝政初期のエジプトでの自然描写帝政期のエジプトにおける絵画として最も作例が残されているのは、ミイラ肖像画(ファイユーム肖像画)であろう。ミイラ肖像画は、エジプトでの埋葬に不可欠なミ― 416 ―― 416 ―

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