鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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た(注5)。しかし、制度ありきの議論では、文字記録と整合しない状況や、それとの接点が見出しにくい資料の評価は難しい。そのため、器種による検討の偏りが生じている、鈴や釧など、文字記録との接点が見出しにくい装身具への注目が低調であることはそれを象徴している。そして、装身具を総体でとらえることも低調であった。文字記録と対照が可能な資料を中心に、器種ごとに分析が深化したため、装具を体系としてとらえる視点は弱い。しかし、装身具を媒介とした秩序の表現は、装身具を総体でとらえることにより接近が可能になる。何を取捨選択したのか、どのような様式(組合せ)を創出したのか、を明らかにすることにより、装身具が表象する秩序へは言及が可能になる。帯金具や冠など、特定の文物に限定した議論は盛んだが、個別の器種の類例比較のみでは、装身具の社会機能は展望できない(注6)。なお、装身具を体系でとらえることは、文字記録を前提とした秩序を相対化し、出土資料の研究を文字記録の検証から開放することにもなる。装身具を総体でとらえ、その実態から秩序を展望することは、中国の国内外で秩序の構築が進行したこの時代の検討に重要な視点である。ここでは、出土資料から、両晋時期の装身具の実態を概観し、それをもとに、秩序の構築にこれら装具が果たした役割を評価してみることにしたい。2.両晋期の装身具をめぐる資料の現状(1)西晋期の装身具3世紀後半、西暦265年に晋朝が成立し、280年には全国を統一した。4世紀初頭には華北が混乱し、以後、晋朝の支配は華南に限定された。五胡十六国時代を迎えるまでの間、この時期の装身具の状況を、洛陽と南京を対照してとらえてみよう。首都が置かれた洛陽では、晋墓が数多く発見されており、その被葬者の階層も多様である。なかには、賈皇后乳母の徐義のように、墓誌から社会階層が判明する被葬者も含む(注7)。洛陽晋墓に副葬した装身具は、多くの墓で共有する装身具と、特定の墓に限定された装身具に分かれる。前者には、釵・簪(稀に笄)と報告する髪飾と、鐲(腕輪)や戒指・頂針(指輪)と報告する環状の装身具がある。多くの墓で副葬する通有の装身具であり、金・銀・銅の素材を使い分けた。埋葬状況を遺存した利民街西晋墓や関林皂角樹西晋墓などでは、女性の装身具としてみえている(注8)。しかし、谷水晋墓M5や厚載門西晋墓では、髪飾や環状装飾が男性の着装する帯鈎に伴い、必ずしも性差を反映するとは限らない(注9)。― 425 ―― 425 ―

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