髪飾や環状装飾を共有する一方、珠飾や花形装飾、鈴、動物形象装飾は、保有が限られていた。珠飾は、水晶・瑪瑙・ガラス・石・骨・陶など各種の珠を組合せた装身具であり、金珠・銀珠を含むこともある。花形装飾は、多弁の花形を表現した金粒細工品であり、珠飾よりも保有が限られた、より上位に位置づける装身具であった。この時期の洛陽では、主に女性を対象として、髪飾と環状装飾の着装が基本であり、珠飾や花形装飾や動物形象装飾の着装が、区分の指標として機能した〔図1参照〕。なお、1957年報告24号墓では龍文透彫帯金具が出土しており、後述する武官の政治的威儀を表象する装身具の出土もみえている(注10)。南京は、東呉の都建業の地であり、西晋前半に相当する東呉後半は首都として、西晋後半は地方主要都市として機能した。この時期の南京でも、髪飾(釵・簪)と環状装飾(鐲・環・頂針・戒指)の着装を基本として、珠飾の保有が一部に限られており、洛陽と類似した身体装飾の状況がみえている。なお、折峰校尉薛秋墓では、洛陽晋墓(1957年報告24号墓)と形態の類似する銀製の透彫帯金具を副葬していた(注11)。(2)西晋末の装身具3世紀末の八王の乱以後、晋朝は統治機能を低下させ、4世紀初頭には華北の統治機能をほぼ喪失した。この混乱期に埋葬された以下の墓は、西晋から東晋への装身具の変化、あるいは身体装飾と社会階層との関係をみるうえで重要である。江蘇省宜興晋墓1号墓は、振威将軍として元康六年(296)に戦没し平西将軍・前将軍を追贈された周処を被葬者とする。この墓では、金製の髪飾や環状装飾、金製の各種形象装飾、珠飾(金・ガラス)と銀製透彫帯金具が出土した。銀製透彫帯金具は、横長の帯先金具と半円形の垂飾をもつ火焔形の銙板を組合せており、前段階の南京薛秋墓の出土品と類似した形態であった(注12)。湖南省安郷劉弘墓は、光熙元年(306)に卒した宣成公鎮南大将軍の劉弘が被葬者であり、金製の髪飾、玉帯鈎と玉石象嵌金製帯金具や銀縁骨牙装飾帯金具、そして雲形や台形の珩や璜などで構成した組玉佩が出土した。玉石象嵌金製帯金具は馬蹄形で、後漢の金製帯金具の系譜をひき、銀縁骨牙装飾帯金具は、洛陽晋墓(1957年報告24号墓)や周処墓の帯金具と形状が類似する(注13)。山東省臨沂洗硯池1号晋墓は、3体の乳幼児を埋葬した墓であり、非常に数多くの装身具が出土した。6・7歳児を埋葬した西室では、金製銀製の髪飾と環状装飾、そして金珠と玉珠に、金鈴と銀鈴、琥珀製と石炭製の動物形象装飾、冠飾(金璫)が出土した。東室では、2歳児に金環と銀鈴が、乳児には金環と銀鈴に、冠飾(金璫)と― 426 ―― 426 ―
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