鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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貝製珠と石製珠が伴う(注14)。いずれも、未成年ながら、珠飾や動物形象装飾を保有しており、金鈴や銀鈴と冠飾(金璫)の保有は注目される。これら3基の墓では、西晋末の社会上位階層の身体装飾が明瞭にみえている。洗硯池1号晋墓は、身体装飾による社会階層の可視化が未成年にも及んだことを示している。仕官に無縁の乳幼児に、晋書輿服志に記述のある武冠の装飾(金璫)が伴うことは、それを象徴していよう。周処墓と劉弘墓の装飾帯(帯金具)は、前代の洛陽晋墓や折峰校尉薛秋墓と一連のものであり、装飾帯が将軍・校尉という上級武官の身分表象機能をもち、武装・軍装という身体装飾が社会階層の可視化装置として機能したことを示している。(3)東晋期の南京:4世紀の華南4世紀初頭に晋朝が南遷した後、南京は首都建康の地として存在した。晋墓では墓誌を伴う例も多く、身体装飾と社会階層を対照してとらえることができる例も少なくない。高崧の家族墓は、なかでも遺存状態が良好な好例である。仙鶴観東晋墓2号墓は、泰和元年(366)に卒した鎮西長史騎都尉の髙崧夫婦を埋葬し、同6号墓は東晋前期の高悝夫妻(髙崧の父母)を埋葬したと推定されている。両墓で出土した装身具は以下の通りであった〔図1〕(注15)。6号墓(東晋早期) 男棺:玉帯鈎・組玉佩・珠飾(水晶) 女棺: 金製花形装飾・髪飾(金釵・銀簪)・金歩揺・金璫(冠飾)・環状装飾(金環・金頂針)・形象装飾(鎏金銀鼎・金製動物形・琥珀獣形・緑松石辟邪形・料獣)・珠飾(琥珀・緑松石・料/金)・鈴(金・銀)2号墓(高崧:泰和元年卒(366)/会稽謝氏:永和十一年卒(355)) 男棺:玉帯鈎・組玉佩・金製羊形装飾・金勝・珠飾(料) 女棺 :金製花形装飾・髪飾(金釵・金簪)・金製円形装飾・珠飾(料)  (棺前方一群): 環状装飾(金鐲)・形象装飾(辟邪形/琥珀司南形)・金製花形  (棺前方一群):金歩揺・金製円形装飾・金製瓢形装飾両墓にみる身体装飾は、被葬者に皇帝もしくは皇室関係者もしくは、温嶠などの元勲を想定・推定する大型墓から、温氏(郭家山墓群)、王氏(象山墓群)や顔氏(老虎山墓群)、謝氏(司家山墓群)などの家族墓でもみえている(注16)。他の墓と共通した身体装飾は、この時期の特徴としてとらえられよう。その一つは、女性の身体装飾が非常に多彩なことである。髪飾や環状装飾を基調として、形象装飾や珠飾あるい装飾・金璫(冠飾)― 427 ―― 427 ―

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