鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
437/549

は鈴を加えた構成は前代と同じだが、形象装飾は形状も素材も多様化し、珠飾も金・銀・玉・水晶・ガラス・瑪瑙・琥珀・緑松石・貝と素材は多様である。遺存状況を加味して前代との比較をせねばならないが、装身具の多彩さ、多様さは特徴として理解できよう。今一つは、身体装飾に男女の性差が明瞭な一面と不明瞭な一面がみえることである。雲形や台形の珩や璜を組合せた組玉佩は、前代の劉弘墓で出土したように、礼や爵位との関係を想定される男性の身体装飾であり、多彩な女性の身体装飾と対をなす。その一方で、珠飾や形象装飾は男性の身体装飾にも含まれ、仕官に無縁の女性に冠飾(金璫)が伴うように、身体装飾の形が性差で厳密に区分されるわけでもない。この時期にも髪飾と環状装飾のみを副葬した墓は存在しており、身体装飾の違いによる社会階層の可視化は依然として機能していた(注17)。装身具の構成を前代から継続し、多様化させた動きは、当期に西晋の身体装飾の形が成熟したものとして評価できよう。そこに、門地が階層を規定した貴族社会での身体装飾の形が見いだせる。(4)4世紀の華北:五胡十六国4世紀に、晋朝が統治機能を喪失した華北は混迷する。この時期と判断できる墓は、陝西省咸陽の前趙・後趙・前秦墓や遼寧省朝陽や北票の三燕墓などに限れられる。咸陽では、髪飾と環状装飾を組合せた身体装飾がみえている(注18)。素材は銀と銅で、銅製が多い。鈴や珠飾も含むが、銅鈴と泥珠であり素材に格差がみえる。4世紀前半(前趙・後趙)の平陵1号墓は、儀仗行列を模した鼓吹俑を副葬した、社会階層の高い被葬者をもつが、装身具は銀釵・銀鐲(腕輪)・銅鈴・泥珠に限られていた。西晋の身体装飾を継承するが、装身具は限定され、低品質の素材を選択することに、混乱した社会情勢の反映が想定される。西晋や東晋(華南)との違いは明瞭である。西安では、安定(甘粛省西部)に族籍をもつ梁猛という人物の墓が発見された(注19)。安定梁氏は、梁商・梁冀を輩出した後漢以来の西北の名家である。4世紀中葉・後葉(前秦)に推定され、鼓吹俑を副葬した社会上位階層の墓では、金銅製透彫帯金具など各種の装飾帯金具が出土した。金銅製透彫帯金具は、先述の洛陽晋墓(1957年報告24号墓)や周処墓に類したものであり、後述する慕容鮮卑の帯金具とも共通した特徴をもつ〔図2〕。西晋と関連した、武装で荘厳する身体装飾が華北にみえること、被葬者が漢民族系の名族に出自をもつことは、注目される。遼寧省では、朝陽や北票を中心に、3世紀後半から4世紀にかけての墓が数多く発見されている(注20)。そこには、西晋の要素と慕容鮮卑の特有の要素がみえる。身体装飾では、髪飾や環状装飾、珠飾、あるいは帯金具など西晋や東晋(華南)に共通― 428 ―― 428 ―

元のページ  ../index.html#437

このブックを見る