した装身具と、歩揺をもつ花樹状の金製冠飾や、透彫装飾の馬装(鞍や轡など)など特有の装身具が混在している。帯金具は、洛陽晋墓(1957年報告24号墓)や周処墓と同じ西晋の帯金具がある一方で、独自の形態の帯金具も創出しており(注21)、西晋や東晋(華南)にはみえない透彫装飾をもつ馬装も創出している。朝陽十二台郷塼廠88M1、あるいは朝陽甜草溝晋墓、前燕奉車都尉墓、朝陽袁台子壁画墓などでは、独自の装身具が副葬されていた〔図2〕(注22)。威儀の表象が、騎乗も含めた武装を選択することは、周処や劉弘など西晋の身体装飾にも、梁猛墓にみる前趙・後趙の身体装飾にも通じている。西晋の身体装飾の影響を受けつつ、独自の身体装飾の形を創出したのである。3.両晋期の装身具の位置づけ(1)西晋から東晋へ3世紀後半から4世紀を対象に、埋葬に反映された身体装飾の形を概観してきた。西晋から西晋末、東晋(華南)へと、漢民族を主体とした社会が継続するなかで、身体装飾の形は継承された。そこでは、ある程度性差に対応した身体装飾がみえた。女性の身体装飾は、髪飾と環状装飾の着装を基本として、珠飾や各種形象装飾が付加的に、より上位の階層を区分した。男性の身体装飾は、帯鈎の着装を基本として、特定の官爵と対応して、装飾帯や組玉佩を着装した。女性の装身具は多様・多彩ではあるものの、素材や数量による差異化の志向は弱く、保有者を分節化する意図は見出しにくい。装身具は、その有無において社会階層を可視化する機能を担ったのである。一方、身体装飾による社会階層の可視化が女性により顕著に表れたことは興味ぶかい。身分・階層の可視化は、乳幼児にも明確に意識された。それに反して、男性の身分表象は身体装飾という形では強く意識されてはいない。身分表象が、誰を対象に、何処に強く表れるのか、ここに六朝期の社会がもつ性格の一面が反映されている。また、身体装飾は性差や年齢で厳然と区分されるわけではない。髪飾や環状装飾が男性に伴うことや、仕官に関連した冠飾(金璫)が女性や乳幼児に伴うこともあった。それは、身体装飾の実態を示すものであり、文字記録として残る理念的な体制・秩序と明確に対応しない実態の一面を明示している。官爵や性差を前提とした理解では、装身具が表象する秩序の実態はみえてこないことを示唆する。(2)新たな身体装飾の創出4世紀の華北では、西晋の装身具を継承しつつも、新たな身体装飾が創出された。この時期には、西晋の身体装飾の継承と変容という両面が見いだせた。継承や連続と― 429 ―― 429 ―
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