鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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注⑴ 川勝義雄『六朝貴族制社会の研究』岩波書店,1982年.⑵ 三崎良章『五胡十六国の基礎的研究』汲古書院,2006年.⑶ 坂元義種『古代東アジアの日本と朝鮮』吉川弘文館,1978年.⑷ 蘇哲『魏晋南北朝壁画墓の世界─絵に描かれた群雄割拠と民族移動の時代─』白帝社,2007年.⑸ 王志高・周裕興・華国栄「南京仙鶴観東晋墓出土文物的初歩認識」『文物』2001年第3期,pp. いう視点では、咸陽の十六国墓で女性装身具に素材の質的低下があらわれた。4世紀の華南では女性の身体装飾が多様化したことと対照をなす。一方で、男性の身体装飾では、武装(軍装)に新たな身体装飾が創出された。周処や劉弘などにみた西晋武官の身体装飾は、武装や馬装へと表現の場を拡大させて、新たな身分表象を機能させた。花樹状冠飾など、独自の要素も融合させつつ、新たな身体装飾と、身分表象の形を創出したのである。男性を対象とした、権威、威儀の表象、可視化がより強く意識されたことがうかがえる。こうした動きは慕容鮮卑の燕で明瞭だが、西安の梁猛墓は慕容鮮卑という特定の集団・社会に限定した現象でないことを示す。西晋の身体装飾を変容させた新たな身分表象は、華北各地で同時期に生じたことを想起させる。なお、中国周辺社会での両晋期の装身具の受容と変容を参照するとき、5世紀の国際関係にも中国の身体装飾の影響が想定される。日本列島では、南朝と交渉した5世紀後半以後に、馬具、鏡あるいは帯金具などに鈴付の造形が登場し、普及してゆく。球体鈴の登場は、従来東北アジアとの交流で理解されるが、洗硯池1号晋墓や高崧家族墓のように、金銀製の球体鈴が上位の装身具である両晋期の身体装飾を対照すれば、その淵源を中国との関係で検討することも必要になるのである。おわりに本論では、両晋期の装身具を概観し、時空を区分して身体装飾の傾向を整理し、その相互比較をおこなった。西晋の身体装飾が、4世紀の華北と華南にどのように継承され、変容したのかを比較し、社会変容と秩序の構築を装身具、身体装飾から検討した。両晋期の装身具は、仏教造像などを含めた南朝の身体装飾との比較、あるいは東アジア各地の身体装飾との比較を通じて、より多元的にその意義は示してゆけるものと考える。本論では、その基点を示したに過ぎない。研究課題を通じて集積した情報は、今後さまざまなメディアを通じて公開に努め、さらなる研究の展開に資してゆきたいと考えている。― 430 ―― 430 ―

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