は専門的な知見が必要であることが判明したが、それだけの凝ったデザインを受容する側にもそれと解する素養、本草学への見識が要求されよう。当時の蜂須賀家の本草研究はどのような状況であっただろうか。徳島藩に積極的な動きが見られるのは、寛政7年(1795)のことである。11代藩主・治昭が京都の高名な本草学者・小原春造を招へいし、沖洲(現徳島市北沖洲町)に600坪の居宅を与え、医師学問所と薬園を設置している(注9)。順天堂大学山崎文庫には寛政12年と享和元年(1801)の蜂須賀家の薬園の百草目録各1通が遺っていることから(写しの可能性あり)、そこに掲出される百草と「薬箪笥」の蓋裏の百草との比較分析も髙橋京子氏にお願いした。その結果、2通の目録の内容については1)100点すべて草本由来(欄外の4点中3点は木本由来)である。2)2通に共通する薬草名は49%で、一年の違いだけで大きく異なる。3)同名称に付された和名または基原名が明らかに異なる生薬が複数散見する。4)薬草(生薬)名の記述に、民間療法的観点での異名・別名・呼称が多い。5)各目録の作成時においても薬草の生育状況が安定しているとは考えにくい。以上の特性があり、蓋裏の百草との共通品目は半数にも満たないことから、「薬箪笥」と薬園関係者との関連性は低いとの結果であった。ただ10代藩主の重喜の本草学への傾倒を管見では見いだすことができず、また11代藩主の治昭は「薬箪笥」制作時には若干13歳である。このことから藩主のために制作された、と積極的には考えにくい(注10)。ところで他藩に目を転じると、「薬箪笥」が制作された18世紀半ばは、いわゆる博物大名により様々な博物図譜が生み出された時代であった。中でも、植物に関わるものでは、高松藩主・松平頼恭による『衆芳画譜』4帖、『写生画帖』3帖や、熊本藩主・細川重賢による「艸木生写」1帖(宝暦11年)、「艸木生うつし」1帖(宝暦12年)が制作されている。特に前者の『衆芳画譜』は、対象の特徴をよく写した彩色の美しい図譜で、「薬草 第二」(第一は欠)、「薬木」の帖を含んでいることに注目したい〔図5〕。この「薬草 第二」のすべてと「薬木」の裏面に収められた図は、『本草綱目』草部のうち草之一から八までの内容に沿って並べられており、同書をもとに編集が行われたことは間違いないことが確認でき、また「薬木」の表面や他の帖については典拠となる本草書は見当たらないものの、やはり『本草綱目』の大きな知を用いながら試行錯誤する編集過程を垣間見ることができるという(注11)。この頼恭の命により制作された『衆芳画譜』の編纂には、高松藩の本草学者としての平賀源内の関与が考えられている。― 440 ―― 440 ―
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