鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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これ以前もしくは同時期の本草書には貝原益軒『大和本草』、小野蘭山『花彙』などがあるが、挿図はいずれも白黒の図が掲載されるにとどまる。「薬箪笥」の蓋裏は金蒔絵を基調とするとはいえ、前述したように色彩感覚が感じられることから、作者の念頭にあるのはこうした版本とは異なり、彩色の図譜がありそうである。そこで試みに、彩色の本草図の先駆けである『衆芳画譜』と「薬箪笥」に描かれる薬草を髙橋京子氏の協力で比較してみると、「薬箪笥」の薬草は、『衆芳画譜』に(昆虫類を除けば)90%以上収載されていることがわかった。ただし、画譜と蓋裏の図像が完全に一致するわけではない。とはいえ、近しい関係にはありそうである。ここで高松藩と徳島藩の関係を確認しておきたい。高松松平家は蜂須賀家の親類大名であった。徳島藩では第7代藩主宗英が没してからは、蜂須賀家の血統が途絶え、8代宗鎮、9代至央は高松松平家から入った養子なのである。その9代も急逝してしまったため、宝暦4年(1754)に17歳で秋田佐竹家の分家(秋田新田)から末期養子として迎えられたのが10代の重喜であった。その頃の徳島藩は財政が逼迫し、領内でも一揆が発生するなど混沌とした状況だった。必然的に重喜は藩政改革を断行するも(明和の改革)、強硬な手法で藩内を混乱させたとして、明和6年10月に幕府から隠居を申し渡され、重喜の嫡子で11歳の治昭が11代藩主を襲封した。若い治昭の後見人のひとりとなったのは、高松藩主だった松平頼恭である。この重喜から治昭への相続にあたっては、頼恭の関与がうかがわれる。『増補穆公遺事』によれば(注12)、徳島藩の老臣が江戸の頼恭(穆公)の邸宅を度々訪れ重喜の不首尾について相談しており、恙なく相続できたのは頼恭のお陰として感謝されていたことを記す。蜂須賀家文書においても、この御家の危機について幕府への善処方を願う徳島藩若年寄から頼恭への演説書が遺っており(注13)、介入の程度は不明であるが、関与自体は恐らく事実であろう。ここに両藩の深い関係性が見いだせる。その頼恭は明和8年、本卦返りの歳となる。辛卯の年ゆえに、国内の猟師たちが兎を撃ち取ることを自ら進んでやめるほどに(注14)、上下をあげて殿様の賀寿を言祝いだ年であった。これは親類大名の蜂須賀家も同様ではなかったか。御家の危機を救ってくれた立役者の一人である頼恭の還暦祝いとして、本人が大いに関心を持つと思われる百草図が蓋裏に描かれた「薬箪笥」が制作された可能性はないだろうか。そして百草の図像は、高松藩の本草研究と関わり合いがあると思われる。ところが同年7月に頼恭はこの世を去る。「薬箪笥」が完成したのは11月であり、本来の贈答先である高松松平家に渡ることなく蜂須賀家にとどめ置かれたとすれば、贈答品として制作された蓋然性は高いと思われる(注15)。― 441 ―― 441 ―

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