【C】天平宝字五年(761)六月辛酉(8日)条【A】天平宝字四年(760)七月癸丑(26日)条【B】天平宝字五年(761)六月庚申(7日)条の表現が本作に突如としてあらわれることの理由をもとめる前に、まずは各幅の図像の典拠について確認しておきたい。前項で示したように、阿弥陀幅と他二幅との間にはその表現から空間的隔たりが想定されうる。しかしながら、そうした場の表現を含め、本作全体の図様と事細かに合致するものを説く経典は見出しがたく、図像の典拠を挙げるならば大きな枠組みとして『観無量寿経』があるといわざるを得ない。そのような中、阿弥陀幅の図像に関しては、両手の第一指と第四指を胸前で捻じる説法印を示していることから、奈良時代に日本にもたらされたとされる『仏説陀羅尼集経』巻第二・仏部巻下の阿弥陀造像法に依拠することが指摘されている(注6)。亀田孜氏は阿弥陀幅が法華寺阿弥陀浄土院の本尊彫刻の写しである可能性にいち早く触れ(注7)、これ以降、阿弥陀幅は阿弥陀浄土院本尊との関係のもとに論じられてきた経緯があるが、近年では山本陽子氏によって法華寺に伝わる『法華滅罪寺年中行事』に記された儀礼との関係が論じられるなど(注8)、研究は一層の進展をみせている。阿弥陀浄土院とは、光明皇后の追善供養(注9)のために法華寺域に創建された堂宇であり、そのはじまりは『続日本紀』の記述から知ることができる。光明皇后の崩御に伴う造像に関する記事について、ここにまとめておく。「設二皇太后七々斎於東大寺幷京師小寺。其天下諸国。毎国奉造阿弥陀浄土画像。仍計国内見僧尼。写称讃浄土経。各於国分金光明寺礼拝供養。」「設皇太后周忌斎於阿弥陀浄土院。其院者在法華寺内西南隅。為設忌斎所造也。其天下国、各於国分尼寺奉造阿弥陀丈六像一軀、脇侍菩薩像二軀。」「於二山階寺、毎年皇太后忌日、講梵網経。捨京南田卅町以供其用。又捨田十町、於法華寺、毎年始自忌日、一七日間、請僧十人、礼拝阿弥陀仏。」天平宝字四年六月七日、光明皇后が崩御すると、二十六日には東大寺および京内の小寺で七々斎会が執りおこなわれた。国ごとに阿弥陀浄土の画像を造らせ、僧尼の数を調べ、『称賛浄土経』を写させ、国分寺で礼拝・供養させた(【A】)。その翌年、周― 449 ―― 449 ―
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