鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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忌斎会をおこなうために阿弥陀浄土院が法華寺の南西の隅に造営された(【B】)。さらに、諸国の国分尼寺に阿弥陀如来の丈六像一軀と脇侍菩薩像二軀の造像が命じられた。また、毎年この忌日には山階寺(興福寺)で梵網経を講読することが、法華寺では忌日の七日から七日間の阿弥陀仏の礼拝が定められた(【C】)。このように、光明皇后の崩御を契機として、諸国の国分寺には阿弥陀浄土画像が、国分尼寺には丈六阿弥陀如来像と脇侍菩薩の三尊像の彫刻が造像されることとなった。上記の内容を精査し、長岡龍作氏は光明皇后の崩御を契機としてつくられた阿弥陀如来の図様について、その「型」が継承・再生されてゆくさまをたどり、この図様が「光明皇后御斎会図様」として極めて強固な規範性が保持されていくことを示した(注10)。長岡氏は『続日本紀』の記事に加え、『大乗院寺社雑事記』および『法華滅罪寺縁起』にみえる光明皇后の忌日斎会の内容から、毎年忌日(六月七日)には梵網会が興福寺と法華寺の両寺において一連のものとして開催されることを示された。そして、この法会の本尊こそ、「光明皇后御斎会図様」を継承した興福寺講堂像(注11)であり、法華寺本阿弥陀幅もまたこれの写しであることを結論付けられた。また、法華寺本阿弥陀幅の具体的な使用方法については、先に触れたとおり、山本陽子氏が「本願御追善往生講」と初めて結びつけて論じたが、長岡氏もここにいう往生講と阿弥陀幅の関係を肯定している。以上、近年の研究史を概観したが、本稿もまた阿弥陀幅の制作事情に関しては基本的姿勢を同じくすることを断っておきたい。阿弥陀幅が制作されたと考えられる鎌倉時代には、阿弥陀浄土院本尊は健在で(注12)、それと全く同じものを絵画化する必要はなく、むしろ特定の儀礼のための造像が想定されるべきであると考える。『法華滅罪寺年中行事』には、六月一日からの七日間で「本願御忌日梵網大会」を、六月七日からの七日間で「本願御追善往生講」を執りおこなう旨が記され(注13)、興福寺とは七日の忌日のみ、合同で法会が営まれたと想像される。法会の性質からしても、阿弥陀幅は全14日間を通して懸用されたとみてもおかしくはないだろう。以上より、法華寺本阿弥陀幅は、往生講という儀礼のなかでは、三幅一対の画面としてではなくとも、独立した画幅として用いられうるものである可能性が確認された。改めて本作の阿弥陀の描かれ方を見ると、観音や勢至とは明らかに異なる、ゆったりとした空間表現がみえ、加えて説法印を結ぶことを素直に読み解けば、阿弥陀がいる場所は彼岸である可能性が高く、画面の表現からも阿弥陀幅は観音・勢至幅および童子幅とは性質を異にしていることがわかる。阿弥陀の描写は此岸の往生者のもとへ今まさに「来迎」している描写であるとは言い難く、観音・勢至幅にあらわされた― 450 ―― 450 ―

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