鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
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運動性をもって三幅そろいで来迎の景ととらえる必要はなくなったといえよう。観音・勢至幅が往生者を迎えとり浄土の阿弥陀のもとへ帰る瞬間をとらえたものだとしたら、阿弥陀幅は彼らの帰還を浄土で待つ姿をとらえたもの、ひいては、我々此岸の往生者側からの目線からすれば、観想の対象としての一幅とみなすこともできるだろう(注14)。改めて考えれば、光明皇后の追善像に『陀羅尼集経』所依の図像が採用されたことも偶然ではないだろう。『陀羅尼集経』は、天平勝宝五年(753)の鑑真の来朝とともにわが国にもたらされたが、鑑真請来の「普集会曼荼羅図」が同経に拠るものとしたら(注15)、鑑真から戒を授かった光明皇后に所縁ある阿弥陀の図像として重要視された可能性は否めない。最後に、阿弥陀幅が往生講と結びつくことを踏まえたうえで、観音・勢至幅、童子幅を併せた本作全体としての機能について、考察を試みたい。三、鎌倉時代の法華寺と戒律復興運動創建以来、全国の総国分尼寺として栄えた法華寺も、平安時代には次第にその勢いは衰え、鎌倉時代初期にはすでに荒廃していたことが比丘尼円鏡撰『法華滅罪寺縁起』(嘉元二年(1304))等からうかがい知れる(注16)。しかし、法華寺は鎌倉時代に入ってから二度、復興の機運に恵まれることとなる。一度目は浄土宗の湛空上人(1176~1253)によるもので門や築垣などの修復がおこなわれた。しかし、これはごく一部の軽微な修繕であったようで、次に転機が訪れるのは南都の戒律復興運動の立役者である思円房叡尊の手が差し伸べられたときである。叡尊が法華寺の再興に貢献したことは、自身の日記である『金剛仏子叡尊感身学正記』(以下、『学正記』)にも示されるところであり(注17)、法華寺は西大寺末に入ることにより結果として寺営の立直しに成功した。叡尊らの教団の活動に関しては多くの先行研究があり、ここでそれをまとめるには紙幅が足りないが、彼が嘉禎二年(1236)九月に東大寺法華堂で円晴、有厳、覚盛とともに自誓受戒し、その後の戒律復興運動を推し進めていく中で、法華寺との関係として特に注目されるのは、男女を問わず菩薩戒を膨大な数の人々に幾度となく授けた事跡に関するものである。『学正記』の法華寺に関する記述は、寛元三年(1245)四月九日に初めて見いだされ、ここでは三人の尼僧に菩薩戒を授け、無事に沙弥尼が成立したことが記される。その後も叡尊による授戒は続々とすすめられ、建長元年(1249)二月六日には十二人に比丘尼戒を授け、ついに如法の比丘尼が誕生することとなった。― 451 ―― 451 ―

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