中世に復興された尼寺は、そのほとんどが律宗関係であり、したがって叡尊ら遁世僧の教団の手が差し伸べられた寺院であることはすでに報告されている通りである。結果として、叡尊の活動は彼個人の救済活動ではなく、教団という組織としての全国展開を見込んだ大きな潮流があったことが知られるのである。法華寺もまたその流れに乗じたが、同寺は単なる復興を遂げただけではなく、尼戒壇の設立をもって、周辺寺院の尼衆を受け入れたり、またここから尼僧が全国へ活動を展開させていくことができたという、特殊な事情のある寺院でもあった(注18)。一度、法華寺本に話を戻す。本作のような大画面の本格的な仏画が、同寺の復興のいつ頃に制作されたものであるか、またそれが制作された目的について、中世の法華寺の状況をもとに考察してみたい。表現上の時代観から、本作の制作は俊乗坊重源が法華寺を一部整備した頃を想定する柳沢氏の見解が現在では定着しつつあるが(注19)、上記のような寺勢を鑑みれば、叡尊らをはじめとする遁世僧らの教団による南都の尼寺復興の機運があってこその制作と考えられないだろうか。論者は、法華寺本三幅はすべて叡尊教団によって復興を遂げる中で制作されたものと考える。したがって、三幅が同時につくられたか否かという、時代観の判定に重きを置くことはもはや問題ではなく、三幅は一具のものとして使用されるものであったことを強調したい。前項でみた儀礼にあてはめれば、「本願御忌日梵網大会」で阿弥陀幅を使用し、続いておこなわれる「本願御追善往生講」で観音・勢至幅と童子幅を追加して、儀礼は執りおこなわれたと考える。阿弥陀幅は梵網会に単独でも対応しうるものであったのに対し、往生講は三幅がそろいはじめて成立するものであったのではなかろうか。では、往生講においてはなぜ「帰り来迎」的な表現である、往生者の視点という要素含む画幅を追加する必要があったのだろうか。ここで重要なのは、叡尊教団らの力添えにより法華寺に尼戒壇が設えられ、同寺に如法にかなった比丘尼が在することとなり、彼女らによってさらにほかの尼衆らにも戒を授けられるような環境が整ったということであろう。復興を遂げた法華寺では、比丘尼の誕生および受戒の浸透をもって、変成男子説を代表する呪縛ともいうべき困難を乗り越えて、ようやく真の女人往生が現実のものとして認められるようになったのである。天平勝宝六年(754)に鑑真から正式な戒を女性として初めて授かった光明皇后の信仰の一端は「国家珍宝帳」の願文などに垣間みえるが、自身の極楽往生を願うこと以上に、先に旅立った聖武天皇に向けても彼岸から人々を救済するよう願っている旨は、大乗菩薩戒の実践そのものといえるだろう(注20)。光明皇后の信仰に倣い大乗菩薩戒の実践を梵網会でまず誓い、現実にものとなりはじめた女人往生については、往生講の中で祈り確認すると― 452 ―― 452 ―
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