鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
462/549

注⑴ 大串純夫「来迎芸術論 1~5」『國華』第597・599・604・605・608号、國華社、昭和15~16⑵ 加須屋誠「新・来迎芸術論 ─大串純夫の余白に─」『図像解釈学 ─権力と他者─』仏教美⑶ 法華寺本に関する主要参考文献は以下の通り。大串純夫「来迎芸術論(三)」『國華』第604号、国華社、昭和16年。亀田孜「法華寺阿弥陀三尊画像の意想 一・二」『大和文華』第20・22号、大和文華館、昭和31・32年。柳沢孝「阿弥陀三尊及童子像」『大和古寺大観』第五巻、岩波書店、昭和53年。中野玄三「「阿弥陀三尊及び童子像」(法華寺蔵)の成立」『大和の古寺』第5巻、岩波書店、昭和56年。中村興二「〈来迎美術史研究序説 その2・3〉阿弥陀来迎図の成立 ─法華寺阿弥陀三尊像の本尊─」『仏教芸術』145・147号、毎日新聞社、昭和57・58年。中野玄三「阿弥陀三尊及び童子像の成立」『来迎図の美術』同朋舎、昭和60年。原沢暁子「法華寺阿弥陀三尊及び童子像について」『美学美術史研究論集』第8号、名古屋大学大学院文学研究科美学美術史研究室、平成2年。山本陽子「法華寺蔵阿弥陀三尊及童子図の使途に関する一考察」『美術史研究』第30号、早稲田大学美術史研究会、平成4年。和佐本静代「法華寺阿弥陀いう一連の儀礼が中世の法華寺で営まれたと考えられるのである。とくに後者の往生講は、法華寺という尼寺としての性質を考慮すれば、尼衆の参加によって完結する性質の儀礼であったと思われる。したがって、往生講においては観音・勢至幅にみえる、自身の来るべき往生を彷彿とさせ、集った人々が往生を観想することができるような画幅が不可欠だったのではないだろうか。おわりに法華寺本は、ながらく「来迎図」という枠組みの中で議論がなされ、本作は「特異な」「珍しい」といった言葉で形容されてきたが、以上で確認したように、実際にはその造形は「来迎図」の一言に収斂できるものではなく、むしろ「往生図」としての役割が大きかった。本作は、鎌倉時代に至りようやく如法の受戒の制度が法華寺に確立し、女人往生という切なる願いが果たされたことを祝福し、また鎌倉時代における同寺が光明皇后の理念を継承する寺院であることを自負していたことを示す、記念碑的な作と考えられるのではないだろうか。鎌倉時代の南都における戒律復興運動の様相については、仏教学の門外漢である論者には難解で本稿ではほとんど触れられなかった。当時の女性たちは、その位相によって授けられる戒にいかなる違いがあるか、また光明皇后以来の受戒の伝統はいかにして受け継がれてきたかなど、女性の往生の実態についてさらに情報を増やし検証することを今後の課題としたい(注21)。年(のち、『来迎芸術』法蔵館、昭和50年、に再録)術論集 第4巻、竹林社、平成25年― 453 ―― 453 ―

元のページ  ../index.html#462

このブックを見る