鹿島美術研究様 年報第39号別冊(2022)
463/549

⑷ ほかにも鶴林寺太子堂仏後壁の上品中上図をはじめ、来迎の景に追従するモチーフとしての「帰り来迎」は、瀧上寺蔵九品往生図の上品中上図、当麻寺中之坊蔵中将姫像などにも見出すことができる。⑺ 亀田孜「法華寺阿弥陀三尊画像の意想 二」『大和文華』第22号、大和文華館、昭和32年⑻ 山本陽子「法華寺蔵阿弥陀三尊及童子図の使途に関する一考察」『美術史研究』第30号、早稲⑾ 藤岡穣氏は第一指と第四指を捻じる説法印を示す阿弥陀如来の造像について、彫刻史の観点から興福寺講堂像がそれに該当し、焼亡を繰り返しながらも強い規範性を保ち再興が行われた可能性を示された。(藤岡穣「説法印阿弥陀如来像をめぐる試論」『待兼山論叢』美学編 第35号、大阪大学文学部、平成13年)⒀ 「六月一日 本願御忌日梵網大会。「梵網講讃。」自今日至七日大法会儀。結願日奏伎楽。又七ケ毎日四ケ法用 日之間法花経千部転読講讃。三日 梵網講。長門女房。七日 本願御追善往生講。墓参 自今日七ケ日光明真言七反。吉祥女。」⑸ 『来迎 たいせつな人との別れのために』中之島香雪美術館、令和4年⑹ 「次画師画仏像法用。中央著阿弥陀仏。結跏趺坐手作阿弥陀仏説法印。左右大指無名指。頭各相捻。以右大指無名指頭。壓左大指無名指頭。左右頭指中指小指開竪。」(『大正新脩大蔵経』第18巻800頁下段)⑼ 8世紀にはじまる説法印阿弥陀如来の主たる造像目的は、故人の冥福を祈ることにあった(井上光貞「律令時代における浄土教」『日本浄土教成立史の研究』山川出版社、昭和34年ほか)。阿弥陀浄土院の造営に関しては、造営開始時期について光明皇后の生前か没後かという議論があるが、別稿にあらためたい(近年の研究としては、以下のものがある。中野聰『奈良時代の阿弥陀如来像と浄土信仰』勉誠出版、平成25年。三宮千佳『法華寺阿弥陀浄土院と平等院鳳凰堂』勉誠出版、平成26年ほか)。⑽ 長岡龍作「阿弥陀図像の継承と再生─光明皇后御斎会阿弥陀如来像をめぐって─」『文化史の⑿ 『法華滅罪寺縁起』(『大和古寺大観』第五巻、岩波書店、昭和53年、および『古寺巡礼』法華寺、⒁ 本作の阿弥陀とまったく同様の印相を示す鎌倉時代以前の絵画作品は、西禅院蔵阿弥陀浄土図の中尊以外に例がない。また、絵画と儀礼の関係性に関する議論として、井手誠之輔「礼拝像における視覚表象 宋元仏画の場合」『死生学研究』第16号、東京大学大学院人文社会系研究科、平成23年を参照した。⒂ 佐和隆研「陀羅尼集経覚書」『仏教芸術』第100号、昭和50年⒃ 前掲注⑿参照⒄ 『学正記』の内容については、『西大寺叡尊伝記集成』法蔵館、昭和52年再刊、および細川涼一三尊及び童子像について ─三幅構成をめぐって─ 上・中・下」『史跡と美術』第676~678号、平成9年。後藤智惠子「法華寺蔵阿弥陀三尊及び持幡童子像について─仏台を用いた儀礼の場の再構成─」『芸術学研究』第2号、京都造形芸術大学芸術学研究室、平成20年。安藤香織「来迎図の尊像構成と迎講に関する一考察 ─法華寺本菩薩・童子幅を中心に─」『MUSEUM』第625号、東京国立博物館、平成22年。加須屋誠『記憶の図像学 亡き人を想う美術の歴史』吉川弘文館、平成31年。田大学美術史研究会、平成4年構想』吉川弘文館、平成15年淡交社、昭和54年に翻刻掲載)参照。『感身学正記 西大寺叡尊の自伝 1・2』東洋文庫、平成11年・令和2年を参照。― 454 ―― 454 ―

元のページ  ../index.html#463

このブックを見る